えば,前年の日清戦争終結や三国干渉などから,国民の聞にナショナリズムが勃興,樗牛自身「日本主義」萌芽のきざしが見える年である。洋画界では黒田清輝らの明治美術会脱退,白馬会結成という大きな事件があった。日本画でも新旧両派の対立構造が見える。そんな中樗牛は「文学と美術とJ(注5)という初めての本格的な美術評論を『太陽』に発表する。その中で樗牛は主に洋画界の現状に論究し,旧派を北派,新派を南派,外光派を「印象派」と表記し,洋画壇はたしかに改革が必要な状況だ、ったが,新派は「一種異様の改革派」であると,新派を否定的な論調で筆をすすめている。そして「景物を描くを知りて歴史を描くを知らず,斯の如きは明治絵画の名誉にあらざるなり。Jと現在の絵画界には歴史画が不足している,と嘆じている。そして洋画壇で「歴史画家」といえるのは五姓田の二芳と小山正太郎の3人だけ,さらに原田直次郎,山本芳翠,川村清雄,松岡寿の名を挙げ,それぞれの「歴史画家」としての欠点を述べている。この文ではさらに宗教画とともに水彩画の不足にも言及している。水彩画は,最近画家の注目する所となったがまだその技量は幼稚で見るものは少ない,としながらも,日本人にとって最も適応する美術として水彩画を奨励したのは,間近に迫った水彩画流行の予見として注目される。もっとも,英国の画家のように日本人画家も水彩で歴史人物画を描いてほしい,と加えているのは歴史画にこだわる樗牛らしい。また,この水彩画に関する文章の中で英国の水彩画家アルフレッド・パルソンのことを取り上げている。パルソンとは,この3年前に来日したアルフレッド・パーソンズのことである。パーソンズが来日し,その作品を東京美術学校で展観した頃に仙台にいた樗牛がリアルタイムでこの展覧会を見た記録は残っていない。しかし,この翌月に書いた「画談一束J(注6)で,パーソンズの竹薮を描いた作品の画題は日本人画家の考えも及ばない,と讃えており,上京後どこかでパーソンズ作品(少なくとも図版)を眼にする機会があったものと思われる。この時期にはさらに「日本西洋両画風の折衷J(注7)という文がある。樗牛のいう「折衷」とは,西洋美術の長所をもって日本美術の短所を補うのではなく,岨噌,同化し,補充とともに独立を目指すものである,と述べている。そのためにはまず自国及び外国の美術を知ることであり,過去の金岡,探幽,文晃,華山らの折衷の例を挙げている。先のパーソンズの件,そしてこの折衷説から,樗牛が他国の文化,文明にまで否定的,排他的であるような国粋主義者であるという認識は誤りであることがわか342-
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