る。「日本主義」について説明するには紙面の余裕はないが,少なくともこの時期の樗牛は私たち現代人が連想する国粋主義とは違う立場で研究,評論をしていたことを強調したい。二高を辞職,r太陽』の主筆となってから「歴史画題論j執筆の頃までを第2期とする。この時期は思想史的には「日本主義J発表,美術史的には「歴史画論争」への前段ともいうべき,樗牛にとっていろいろな意味で一番威勢のいい時期であるといえる。仙台行き以来途絶えていた遁遣の戯曲への批判が「春のや主人の『牧の方Jを評す」(注8)で復活,これまで、受け身一方だ、った遣遣もついに反論を開始し,遣準門下の綱島梁川も加わり本格的史劇論争の様相を呈し始めた。その経緯は歴史画論争のそれとともに〔表2Jを参照されたい。この間にも,樗牛は歴史画に関する評論として「歴史を題目とせる美術J(注9)を書き,遁逼らが拠る『早稲田文学』でも明治30年(1897)かし,この二文はそれぞれの見解を述べたもので,互いに論争するものではなかった。前者(樗牛)は仏画盛行に対し日本神代を描いた歴史画が少ないことを取り上げ,他国(インド)の文物の勢力に屈従しているという葛藤はないのか,と画家たちに呼びかけている。日本主義極端化の予兆と捉えることのできないでもない一文である。後者(梁J11)は歴史画とは史的人物,事件に美を見いだし,そこにかもし出された空想の結実を筆墨に附したもので,史の奴輝ではない,と述べている。一般に歴史画論争は樗牛から仕掛けた,とされている。たしかに史劇論をふっかけたのは樗牛からで,その延長上に歴史画論争があるわけだが,実際に「歴史画の定義Jという命題に踏み込んだ論考は綱島梁川のこの社説が最初だ、ったといえよう。その翌年,日本画界で大きな動きがあった。3月に岡倉天心が東京美術学校長辞職,それに連帯し橋本雅邦,横山大観ら教職員が大挙して辞任,そして7月の日本美術院創立である。樗牛は日本美術院創立にあたり,その「学術担任」及び「特別賛助員」として名を連ねている。「特別賛助員」には遁遁の名も見える。そして10月,日本美術院はその第l回展を日本絵画協会の第5回展と共同で開催,樗牛はその批評会に尾崎紅葉,大橋乙羽らとともに招待された。そのあらましは『日本美術jの第2号に載せられているが,招待者の中で最も熱心に論評していたのが樗牛である。樗牛は出品画に歴史画が多いことを喜び,さらに特筆すべき事として歴史画の中でも心情画が多いことをあげている。そして具体的な批評を述べた作品として小堀鞘音「思賜の御衣J,12月号の社説「絵画界の観測J(筆者は梁J11)の中で歴史画について言及している。し-343-
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