横山大観「屈原J,梶田半古「比曜婦留山J,下村観山「閤維」などがあるが,このうち大観の「屈原」に関しては「歴史画題論J(注10)でl章を設け論評を加えている。「屈原」に関しては綱島梁川も「横山大観子作「屈原」を評すJ(注11)を書いているが,樗牛に論争を仕掛けているわけではない。仕掛けたのは樗牛である。迫遣の回顧文(注12)に拠れば,この年の暮れあるいは翌年の春,樗牛が早稲田文科生の前で歴史画と歴史劇についての演説し遺造に史劇論についての応答を要求,遺造は後日『太陽』誌上に回答を載せることを約束するのである。樗牛が早稲田文科の会合で遁造に論争を申し入れてからしばらくの間,樗牛に歴史画についての評論はない。「屈原」への辛掠な批評とともに,こんな絵を紹介するために長い論文を書いて騒ぎ回るものは,世間を愚弄するというか,芸術を侮辱するというか,現代の技芸家が芸術そのものに忠実ではなく,このような軽課浮薄な丈土のために翻弄させられているのは感慨に堪えない,という,名前こそ出していないが,明らかに樗牛に対する過激な非難を載せたこの年の『美術批評j3月号「批評J(注13)に対しても何のアクションも起こしていない。その理由はこの年の2月から3月にかけて,樗牛の身の上に楽しからぬ事が連続して起きたためと推察する。ひとつは初めての子の流産という家庭の悲劇であり,もうひとつは東京美術学校教授就任話の破綻である。後者は実父宛の書簡(注14)に「右位地は極めて有望,EL私にとりては愉快の位置に有之候。Jとあり,樗牛としても非常に乗り気だったのがわかる。しかし,就任の記録はその後の樗牛側にも東京美術学校側にもなく,この話はなんら公式の記録に現れることなく立ち消えになったものと思われる。さらにこの年の夏には翌年のパリ万博鑑査官〔表3Jに任命されながらも辞退している。「芸術の鑑査を論ずJ(注15)にはその理由として,鑑査官に新聞記者や評論家が含まれていることについては異論はないが,誰もが納得する国内一流のメンバーではない,と述べ,評論家,研究者として外山正一,井上哲次郎,岡倉天心,末松謙澄,坪内遁逢ら,新聞記者として三宅雪嶺,徳富蘇峰らが入っていないことを憤慨している。論敵ながら遺遣の美術に対する眼識を樗牛は高く評価していたことがわかる。また,実父宛の書簡だと,一緒に任じられたメンバーが「何れもクダラヌ人々にて,不肖ながら共に肩を比ぶる(ならぶる)には漸'塊の至J(注16)だ,とストレートに述べている。他のメンバーには教授就3 歴史画論の中断■第3期-344-
元のページ ../index.html#353