一345-(1900)に匿名氏が,樗牛ら斯道の達人がこんなことを論争するなんて,と嘆いた大阪任話もあった東京美術学校関係者も多く含まれていたが,これらの人々も「クダラヌ人々Jなのか少々気になる所である。この時期歴史画関連の評論がないもうひとつの理由は,4月前半の関西旅行で見た奈良の古社寺の荒廃ぶりへの驚嘆である。この旅行の前半は外山正ーに同道して,姫路,岡山,神戸,大阪を回り,その後義兄の杉四郎と奈良へ,さらに杉と別れて宇治を巡っている。その帰京後に「古社寺及び古美術の保存を論ずJ(注17)や「平安朝以前の仏教と其仏像J(注18)など古文化財に関する文章が続く。また,美術品の所有者に対する文章(注19)も見られ,これらが一時期歴史画に関する執筆を途絶えさせたものと思われる。史画の本領及び題目J(注20)で口火を切れば,約束を違えず遁遣も翌月「芸術上に所謂歴史的といふ語の真義如何J(注21)で応戦,これに梁川とその遁遁門下同級生の五十嵐力も加わった。これが翌年の4月に出された樗牛の「坪内先生に輿へて三度び、再び歴史画の本領を論ずる書J(注22)まで続く。当初は第三者にも興味を持って迎えられたこの論争だが,双方が抽象的な理論上の論争に終始し,これまでの樗牛の美術評論に比して具体性の乏しい,説得力に欠けるものになっている。樗牛が美の表現の方便として歴史を用いる,すなわち「方便論」を述べれば,遁造は「目的論」で対抗,樗牛が「人情美」を描くのが歴史画,といえば梁川が「史美」を描くのが歴史画であると応酬,理屈先行の論争は,肝心の作品そのものからどんどん離れていった。迫進一派が美術に関しては専門外だ、ったことも机上論化していった一因であろう。なぜ、この時期に日本画洋画を問わず「歴史画]が描かれるのか,具体的に誰のどの作品がどういう意義をもってくるのか,両者の論争は実作品に触れることなく,やがて観念的な机上の論争として周囲から冷ややかな眼で見られる向きもでてくる。明治33年毎日新聞の記事(注23)などはその好例である。この論争も樗牛の「坪内先生に輿へて…Jで結論を得ないまま終止符をうつ。樗牛にしてみれば待望の欧州留学が決まり,心すでに歴史画にあらず,といった所だ、ったかもしれない。しかしその欧州留学も突然の吐血によって延期,のち病状回復せず断4 歴史画論争始末■第4期以降第4期はいよいよ本格的な歴史画論争である。明治32年(1899)10月に樗牛が「歴
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