鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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注(1) 第l巻の初版が大正14年(1925)11月15日に博文館から発行。漸次7巻刊行。拙(2) 明治24年(1891)9月14日付「斎藤親信宛書簡Jr全集J第7巻(3) 明治28年(1895)11月『太陽J第1巻第11号所収(4) 明治29年(1896)3月「春の家が『桐一葉』を読みてJr太陽』第2巻第6号念に追い込まれてしまう。以後,東京帝大の講師として日本美術史を教えながら『太陽』などに執筆を続けた。この時期を第5期とした。この時期は,古代以降の日本美術史に関する文や「西面解題」という西洋名画の解説のシリーズ(注24)などが目立つ。また,ri滝口入道.1,I日本主義J,I歴史画題論Jとならぶ樗牛の名文として有名な「美的生活を論ずJ(注25)もこの時期である。そしておそらく生前には発表の場が与えられなかった「外界の美JI自然美」など『全集Jにのみ見える美学論は「美的生活を論ずJの少し後の執筆とされる。留学中の姉崎醐風への多くの書簡には自分や世間への憤激が強い筆調で書かれているのだが,療養中の執筆ということもあってか,評論文には第4期までの勢いが感じられない。こうして5期に分けて樗牛の美術評論を総括してみると,やはり「歴史jと「芸術Jの関係という命題が各期を通してその根底に流れていることが見えてきた。だが,日本主義の極端化がすすむ第3期以降はやはり国粋主義的な論考が目立ち始め,歴史画論争にいたっては抽象的な机上論に終始してしまった。しかし,樗牛らの歴史画論が後のこの国の美術界になにも残さなかった,というには現実の明治後半の美術界の動きが許さないだろう。すなわち,藤島武二「天平の面影jや青木繁「わだつみいろこの宮jなど洋画の諸作,また,安田較彦らの紫紅会(紅児会),鏑木清方らの「烏合会Jなど日本画家たちの小団体結成など,一連の「歴史画」からの発展的な動きである。高山樗牛という,これまであまり美術史の観点から取り上げられることのなかった人物についての今回の研究から,さらに進んで日本近代美術における歴史画及ぴ歴史画論の位置づけという新しい課題もまた見えてきたような気がする。文を書くに当たり参照したのは平成6年(1994)10月に日本図書センターから発行された復刻版第2刷。以後『全集』と略して記載。5 結び346

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