鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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地芝居の場合,r義経千本桜』や『一谷撤軍記jr菅原伝授手習鑑』など丸本物の時代狂言がしばしば演じられたが,それは話の面白さだけではなく,衣裳の魅力にひかれたところも大きかったと思われる。あでやかで豪華な刺繍が施された打掛や,可憐な振袖,錦の羽織・着付,緋羅紗地に大胆な切付を施した陣羽織などは,普段の生活では到底袖を通すことはできなかった。こうしたきらびやかな衣裳を,堂々と身に付けることができる狂言は,演じる側にも,観客にも好まれたのである。黒森の衣裳の中にも,こうした芝居衣裳としての特徴を備えた衣裳がいくつも存在する((図1](図2J参照)。また,特定の役柄と結びついたデザインで知られている衣裳も確認できる。『鞘当』の名古屋山三郎役「浅葱嬬子地濡燕文様着付・羽織」や,r仮名手本忠臣蔵Jの十一段目の討ち入り場面で使用する「紺白染分木綿地雁木文様羽織Jなどの衣裳である。人気狂言のこうした衣裳は,役者にとっても見る者にとっても,役のイメージを端的に伝え,その場の空気を一気に盛り上げてくれる。全国の地芝居に残されている衣裳の中には,斬新で大胆なデザインのものや,驚くほど豪華なもの,技術的に大変凝ったものなどが数多く存在している。筆者の見たところ,黒森所蔵の衣裳は,全体的な印象としては奇抜なものが少なく,歌舞伎の衣裳としては比較的穏やかな作行きのものが多いように思われる。一方,②のタイプと思われる衣裳も多い。「流水四季花木文様振袖J(図3Jなどは,江戸後期に作られたものと思われ,振袖であったものを,芝居用に手直しして使用している。こうした衣裳は,武家の女性たちが着用するような格式の高いデザインや素材のものであったり,町人でも比較的裕福な階層の女性たちが着用するような高価な衣裳である。これらは古手として入手されたようで,全国の地芝居の衣裳の中にも多数見いだせる。また,黒森には黒紋付の羽織・着付や,浅葱麻地染小紋の待などが数多く所蔵されている。これらは,基本的には②に入る。近年まで多くの人々が冠婚葬祭などで着用していたもので,おそらく自分の家族が使用していた衣類を,座に寄贈したものであろう。各年代にわたって数多く所蔵されており,そのほとんどは記録されていない。しかし,地芝居の役者たちにとっては,①の場合であっても,②の場合であっても,非日常的な世界を創出するための衣裳という点では同様の価値を持っているのである。こうした衣裳を柔軟に組み合わせることで,黒森歌舞伎は数多くの狂言の様々な354

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