自ら演じる魅力に取りì~かれていた地芝居の人々にとっては,衣裳の存在は芝居その役に対応してきたのである。衣裳を調達することは,芝居を維持する上で最も重要なことのーった、った。特に,ものを象徴するものでもあった。黒森歌舞伎の役者たちにとっても同様であっただろう。その大半は,旅役者達によって伝えられ,それぞれの地で主を失った衣裳達であったと思われる。衣裳に付された墨書および『妻堂帳』の記述に拠れば,黒森では幾度かまとまって衣裳を入手していることがわかる。江戸や大阪などに出向いて,大金を投資して大芝居の中古衣裳を求めるというような積椋的な行動は行っていないが,それだけに,まとまって芝居衣裳を収蔵するという行為には,地方に伝播した歌舞伎文化の最後を,黒森歌舞伎が掬いあげ,吸収していく様が表れているのである。さらに黒森の衣裳の特筆すべき点は,奉納書を持つ衣裳の存在である。黒森歌舞伎の衣裳は「奉納」という形式によって座の所有となる場合が多く,衣裳の背裏に奉納書が施されているものが百点以上存在している。この奉納書には,奉納者の氏名や住所,奉納の年,奉納の目的などが記されている。奉納の年がわかることで,黒森歌舞伎にとっては数少ない年代的な手がかりを提供するとともに,I奉納」という行為を通して,黒森歌舞伎とそれを巡る人々との多様な関係も浮かび、上がってくる。衣裳というものとしての資料と,奉納書という文字資料が一体として伝わっていることで,衣裳の資料的意義はいっそう高いものとなる。「奉納Jという行為を通して,どのような立場の人間でも,自らが芝居に貢献しているという自覚と喜びを持ち得る。このことは,芝居を通じて連帯意識を生み,集落の結束を維持するtでも有効だったのではないだろうか。このように,黒森歌舞伎の衣裳を資料化し,そこから得られる情報を分析してみると,黒森歌舞伎の衣裳と狂言の関係,衣裳の具体的な動き,そのことが示す歌舞伎を巡る環境の変化などが見えてくるのである。(2) 兵庫県個人所有の衣裳について当衣裳群の所有者は,兵庫県北部の城下町の現在十二代目を数える旧家である。三代目から明治中期まで紺屋を家業としていた。芝居好きの十代目が明治四年歌舞伎舞台を建て,積極的に興行するとともに,周辺地域で維持できなくなった衣裳や道具類を塊集した。十一代目も芝居好きで,京都,大阪からも衣裳を購入し,仕立師や刺繍355
元のページ ../index.html#364