師,着付師,床山なども配して本格的な貸衣裳業務を行い,日清・日露戦争などの戦争ブームにのって各地で地芝居が盛んになるに伴って,衣裳の貸し出しが急増した。貸し出し範囲は,播磨,丹後,若狭,京都など広域であったが,素人演劇に限っていたという。明治三十三年には更に本格的な劇場を造った。この劇場は戦後まで新派劇や浪曲劇,剣劇などが上演されていたが,地域人口の急激な減少やテレビの普及などで興行成績が落ち込み,昭和四十三年に廃業した。衣裳の貸し出しは昭和四十年に停止し,以後は保存整理に専念している。所蔵資料は,衣裳だけでも五百点以上におよび,浄瑠璃本,衣裳付帳,霊イ寸帳などが多数残されていて,貸衣裳屋としての広範な活動の様子を窺わせる。残念ながら,現在,その所蔵衣裳の全貌および文書類の全容を把握するところまでは到っていないが,代表的な衣裳から,幕末以降の地芝居を取りまく様々な状況が見えてくる。武陽隠士「歌舞伎芝居のことJ(注3)に「江戸・大坂・名古屋の芝居を手本として,国々,城下,津々浦々にまで芝居が流行している。江戸など以外は禁止されているにも係わらず,今では村々まで祭り狂言等と称して,若者どもが芝居の真似をし,伝統的な神楽や,趣のある盆踊りなどもなくなり,皆芝居狂言に夢中である」と既にあるように,江戸後期以後,自らが演じるという側面からも,全国各地に歌舞伎趣味が蔓延していた。こうした地芝居の興隆を支えたのが,芝居衣裳や小道具の貸し出しを専門に行った貸衣裳屋の存在であった。現在の私たちが自にする衣裳も,こうした各地の貸衣裳屋が所持していたものが大半で,それらの衣裳は,大芝居のものとは異なり,手入れや修繕を行い,長年にわたって使われ続けたものが多く,中には江戸や大坂で名高い役者によって使われたものが,由緒正しい衣裳として宝物のように遣されている例もある。兵庫県個人所有の衣裳のなかには,この地域の祭礼や職人技術などの特色が反映されているものがいくつか確認できる。「宝船鶴亀文様打掛J[図4Jや「平家物語文様打掛J[図5J I鷹と九尾の狐文様打掛J[図6Jは,強烈なエネルギーと特殊な意匠性を示す存在として注目されてきた衣裳であるが,近年の兵庫県および瀬戸内沿岸各地の祭り屋台などの調査研究(注4)から,そこに用いられている飾幕の意匠や技術〔図7][図8Jが,これらの歌舞伎衣裳の特徴と重なることがわかってきた。356
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