正4)年に神戸に戻り,個展を聞いた。神戸又新日報の1915年4月8日付け(あつまり)欄に,今井が須磨で聞いた個展の告知記事が載っている。「洋画展覧会今井あさ路氏は洋画個人展覧会を十日より三十日迄須磨寺遊園前薬師堂に開催すJと(注1)。絵を本格的に学び始めて3年程のことであり,どのような作品が発表されたのかは不明だが,ごの時点で日本画から洋画へ転向していた様子が窺える。同展は,いまひとつうまくなれない絵を止めるつもりで持った発表の場であったという(注2)。しかし今井は同年知り合った2歳下の川西英の絵に影響を受け,絵筆を捨てず制作を続ける道を選ぶことになった。ちなみに今井に先立ち同年2月,兵庫県立神戸商業学校生だ、った川西英雄(のちの英)は,洋画個人展を神戸駅前の相生町(楠公前)カフェー・ブラジルで開催した。この展覧会の目録は現存し彼の後期印象派への傾倒ぶりが感じられる初期油彩画も一部知られている(注3)0]11西の個展もまた,学生時代最後の思い出として絵筆を捨てる覚悟で聞き(兵庫の商家に生まれ家業を継ぐことを考えていた),逆に芸術愛好仲間を得ることになった展覧会であった。奇しくも同じ大正4年に神戸で当時珍しい洋画個展を聞いた二人の青年は,互いの存在ゆえ絵に繋ぎ止められることになったと言える。しかし,その頃神戸で絵を描き芸術に関心を持つ青年は,不良として扱われるのが関の山であった。彼らは作品の展示場所としても利用したカフェに集まるが,神戸又新日報の1915年春から初夏にかけての読者欄(ヨセフミ)には,こうしたカフェで芸術談に興じる若者を批判する投書と,弁護する投書が入り乱れたローカルな投書合戦が続く。度々槍玉に挙げられた「赤マント君の行動」は明らかに今井朝路のことを指している。一連の投書は,地方新聞を賑わしたゴシップにすぎないけれども,地方の都市で生活する青年たちの少々芸術的な活動が軟派と中傷され,激しく攻撃された様子が,部撤的な文面から妙に生々しく伝わってくる。実際,記録に残る今井の姿も強烈である。長髪で,英国製の服とエナメル靴を身に付け,竹久夢二が描く宣教師を真似た赤いマント(祖母子製)は,足に届くほどの長さであったというのだから(注三十九連隊に入営。しかし,聞も無く病気で除隊となり,素人劇団「パルナス座Jを結成して武者行路実篤の「二十八歳のキリストjを上演したり,後にスコットの「湖上の美人」を上演するなど以後も華やかな行動で知られている(注5)。絵画について4 )。目立ちすぎた今井は,地方新聞上でパッシングされた後,同年末に髪を切って第362
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