は1922(大正11)年に洋画団体「コルボーJを結成し展覧会を開催するが,作品はあれた竹久夢二風のサインとIMCMXNJの年記スタンプが押されている。1915~17年頃に制作された川西の「街J[図2Jに,典型的な表現主義の気分が表れていることはまり残っておらず,またわずかばかり紹介されるものも趣味的でディレッタント的な域にとどまる。そのため魅力的な存在にも関わらず,今井はいつもディレッタントとして扱われてきた(注6)。しかし,亡命ロシア人芸術家,ダヴイッド・ブルリュークが1921年頃に須磨に逗留した際,親交を結んだ(フ守ルリュークは今井の肖像画を描いた)こと(注7),隣家に浅野孟府を住まわせていたことなど,今井は大正期の神戸における新興芸術の情報拠点として再考されるべき点が多い(注8)。ブルリュークは,シュトルムに参加した経歴を持ち,今井のかつての師,尾竹竹披はブルリュークとの交流から日本画家でありながら未来派風の作品を描いた。今井による未来派風の作品は知られていないが,1921年頃と言えば,当時神戸の原田(現・神戸市灘区)に学舎が在った関西学院の美術部・弦月会の学生に創作版画の制作が広まっていた時期である(注9)。当時在籍した北村今三(1900-46)のような学生たちが,今井の持つ雰囲気や交友関係に憧れ,交流が生まれていても不思議ではない。後に川西と神戸の創作版画グループ,三紅会を結成する北村の作品には,当初から表現主義的な雰囲気が強く漂っている。また,北村はドイツ表現主義の画家の作品を模刻した際に(彫版の様子から1920年代初期と思われる),余白に「今井氏ガ好キソウダ」という今井の好みを思いやったコメントを川西あてに書いている。北村をはじめ神戸で木版画を手がけた青年たちは,今井という当代のキーパースンを通して,ブルリューク,未来派,ドイツ表現主義を極めてリアルに感じ取っていたのではないだろうか。更に,ドイツ表現主義の種は,神戸に直接蒔かれた可能性がある。よく知られているように,山田耕搾(当時は耕作,1886-1965)と斎藤佳三がベルリンからへアヴアルト・ヴァルデンに託されて持ち帰った版画作品は,1914 (大正3)年3月に日比谷美術館で「デア・シュトlレム木版画展」として紹介され,日本における表現主義受容の重要な契機となった。川西英の|円蔵本の中には,この「デア・シュトルム木版画展」の目録と半券が残されている〔図1]。目録には当時の)11西が自作や愛蔵本に好んで入既に指摘されている(注10)。もし19歳の川西が「デア・シュトルム木版画展」を実見一363-
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