鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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していたとするなら,まだ木版画の制作数が多くない時期に,I街」のような素朴さと単純化の志向を持つ都市のダイナミズムが感じられる作品を生み出した背景として納得できる。また,当時尾竹門下にいた21歳の今井朝路が日比谷美術館を訪れた可能性は更に高く,今井が日本画から洋画へ転向した契機のひとつだ、ったとも考えられる。実際に日本へシュトルムの種を運んだ山田耕符と関西学院の関係も再考されるべきである。自伝によると,山田は長姉ガントレット・恒子の家庭に引き取られて,岡山の養忠学校に入学後,義兄のエドワード・ガントレットから西洋音楽の手ほどきを受けた。1902(明治35)年秋に関西学院中学部に転校,グリークラブと野球部に入り,暇さえあればチャペルでオルガンとピアノを弾いて暮らした(注11)。その後,母に音楽の道を進むことを許され,1904 (明治37)年9月に東京音楽学校へ入学。岩崎小弥太男爵の援助を受けて1910年2月にドイツ留学のため旅発つ。山田は1913年にベルリンでシュトルム杜展を見てへアヴアルト・ヴァルデンの知遇を得た。そして1913年12月にベルリンを発って,モスクワ,ハルピン経由で帰国する際に,ヴァルデンから託された約150点の版画を持ち帰ったのである(注12)。山田は帰国後,東京を中心に精力的な音楽活動を行うが,彼と神戸の結びつきを考える上で,ここで神戸の音楽愛好家の北村吾三郎(1889-1976)に注目しておきたい。北村信雄氏のご教示によると,氏の父君である吾三郎(関西学院普通部1907年卒)は,山田耕搾(同1906年卒)と関西学院のグリークラブ仲間であった(注13)。木下百太郎編『関西学院グリークラブ部史.1(1940年)は,北村について「始めてハープなる楽器を紹介した人J(13頁)と紹介している。北村信雄氏は大正時代,自宅にハーフ。が在ったこと(後に売却)を記憶されている。これは演奏が目的というよりも楽器の形の美しさや珍しさが勝つての所蔵だったと思われるが,当時の普通の家庭にハープが置かれていたエピソード自体,彼の相当な音楽熱愛ぶりを物語る。北村吾三郎は,関西学院卒業後,旧居留地で外国為替仲立の仕事に就き(栄町の岡田為替庖),関学野球部の監督もっとめた。北村吾三郎「神戸元居留地雑話JU神戸史談.1227号,神戸史談会,1970年7月)には,幼少の頃,神戸港に入港した軍艦の軍楽隊が演奏する際は逃さず聴きに行ったことトーア・ホテルで開催されたドイツ系の音楽会へ,タキシード姿の在留外国人に混じり紋付羽織袴姿で出かけた思い出が記されている。また,東京上野の奏楽堂で日曜日に聞かれるレコード・コンサートを聴くために,週末に友人と夜行でたびたび上京したという。この随筆からは,仕事の合間-364-

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