を氏は所蔵されている)とのこと。氏が3~4歳頃というから1920~21年頃の作と推をぬってレコード・コンサートを聴くために東京へ通うほど,洋楽に対する憧れと飢餓感が強かった大正期の音楽青年の様子が窺え興味深い。北村は本格的な音楽教育を受けていないが,向分で集めたレコードを,総譜を見ながら聴いていたという。珍しい輸入楽器と出会う機会も旧居留地に職場があったことに起因するのではないかと推測される。山田耕搾は,ドイツ留学の際,ベルリン到着早々の1910年3月27日付けで関学同窓の江見恒三郎あてに葉書を出した。「日本近代音楽館館報J第6・7合併号「山田耕搾書簡(一)J(1992年12月)に載録された葉書の文末には,1いずれ旅行記は関西学院の雑誌に投書するつもりに候杉本,北村,其他諸君に宜しく」と記され,北村への気遣いを見せている。帰国後も,山田は関西に来ると北村吾三郎宅を頻繁に訪れたという。山田にとって,北村のような音楽愛好家の学友との交際は楽しいものだ、ったようで,1918 (大正7)年10月にニューヨークのカーネギーホールで聞いた記念すべき第l回管弦楽演奏会が告知された同ホールの印刷物表紙に「吾三坊」と墨書して北村へ贈っている。彼らの交際は,北村家の住所が坂口通(現・灘区)→芦屋浜(現・芦屋市)→北野町(現・中央区)と変わっても続き,1940 (昭和15)年6月12日に朝日会館で開催された山田の指揮による関学領歌の演奏会では,当時関学生だ、った吾三郎の長男・信雄氏がピアノを演奏した。現在,神戸土曜会合唱団の指揮者をつとめる北村信雄氏(1917-)は,亡命ロシア人音楽家,アレクサンダー・ルーチンに6歳頃(1923年頃)からピアノを学んだが,こうした優れた音楽家に師事したのも音楽好きの父の配慮ではなかったかと語っている(注14)。北村吾三郎は,北村今三の11歳上の兄にあたる。今三は,当時の住所と北村信雄氏の記憶を合わせると,学生時代まで吾三郎宅に同居していたようである。北村今三は,吾三郎の楽器好きのエピソードを象徴するような木版画「作品(ハープ)J(図3Jを制作している。楽器に寄り添う子どもは幼い日の北村信雄氏(作品と同じ構図の写真定できる。北村今三は兄と年齢差があるため,山田耕搾と直接関わることはほとんど無かったかも知れないが,音楽的な環境の中に暮らすとともに,シュトルムに共感し得る感性を持っていたと言えるだろう。また,今井朝路たちの洋画団体「コルボー」の支援者だった歌人の奥屋熊郎が,山田耕搾を度々神戸に招いたと『青春と冒険』で紹介されていることからも,今井,山田と北村兄弟の繋がりが確認できると思われる365
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