(132頁)。ここで,北村今三について訂正させて頂きたいことがある。筆者は『川西英と神戸の版画一三紅会に集った人々一展j(1999年,神戸市立小磯記念美術館)で初めて北村今三の調査を試みたが,展覧会準備中にご遺族と出会うことが叶わず,北村と春村ただをの写真掲載が図録で逆になってしまった。その後,今三の甥の北村信雄氏と出会い(しかし直系家族とは連絡が取れない),再調査の依頼を受けて,関西学院学院史編纂室と学生の資料を改めて調査した次第である。混乱を招いたことをお詫び、したい。また,同編纂室の継続的な調査により,春村ただを(生没年不詳)も関西学院に一時在籍したことが明らかになった(しかし入学,卒業の記録は無くOBとして扱われていない)(注15)。更に,関西学院文学部の学生有志が刊行した『関西文学j(1920~28) の第18号(1927年10月)と第四号(1928年2月)の表紙画が春村の作であることが報告された。第19号表紙の居留地風景らしき春村の木版画〔図4Jは川上澄生の作品を想起させるが,関学の同人誌は川上と少なからず繋がりを持ち,1924 (大正13)年11月に創刊された前衛的な傾向を持つ『横顔』の第3号表紙面に川上作品が用いられたことは既に紹介されている(注目)(r文学部回顧』によると,同誌は『弦月』→『朱築(ザムボア)j→『横顔Jと名称を変更)。川上は,1924年2月に神戸版画の家から刊行されたrHANGAj第l輯の表紙画も手がけた。ところで,モダニスト詩人として知られた竹中郁(1904-82)は,関学在学中1922年に北原白秋と山田耕符が主宰する『詩と音楽』で、デビューし,r横顔』へ参加,同誌で浅野孟府や岡本唐貴と交流した。春村ただをは,1920年代中頃rHANGAjへ作品を発表し,同じく版画の家から作品集『神戸風景j(1927年)を出版している。以上から,1920年代の創作版画を制作した関西学院の学生たちと,新興美術運動に関心を持つ学生はかなりの部分重なっていたと思われる。学生たちにとって,木版画は参加し易い前衛的な表現であったことが理解できる。ここで,再び,)11西英に戻る。1915年の個展後,川西は今井朝路同様,その年末に第三十九連隊に入営し2年近く服務した。彼が次に油彩の小品や団扇図など作品をまとめて発表したのは1919(大正8)年のことであった。結局家業を継ぐことにはならず,1922 (大正11)年より兵庫東出郵便局を経営する傍ら川西は制作を続けることになるが,この1922年2月に関西学院・弦月会が主催した創作版画展覧会へ木版画を発
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