鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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活動(1929~36年)が当地に花聞くにいたったと思われるのである。表するまで,木版画制作に関しては幕開のような数年間を過ごしたことになる。後に本人が語っているように,川西が木版画を本格的に制作するようになったのは「山本鼎の版画を見て」というのが定説となっている。実際,山本の滞欧作の暖かい色調は川西の好みであっただろう。しかし,川西の初期作品からは,表現主義的な雰囲気を受けても,山本のような技術に支えられた徹密な木版画を制作する志向はほとんど感じられないことも事実である。若き川西を捉えたのは何よりも竹久夢二であり,特に木版画による美しい装柏本や千代紙の数々に魅了されていたことを改めて考えたい。また,1920年前後の川西にとって,版画道を歩む上での重要な契機として富本憲吉や河合卯之助との交流も考慮しておきたい(注17)。川西の旧蔵本の中には富本が表紙を手がけた『卓上j(1914~ 15)が含まれている。大阪の柳屋から出版された卯之助千代紙等,木版による美しいデザイン資料も収集していた。1920年代初期の写生帖には富本の図案「砂正J(1921年)のスケッチが残され,富本の陶器図案に対する関心も窺える。大正期に奈良に暮らした富本の図案や文人画的な初期木版画の存在は,川西が伝統的な木版画の世界に縛られることなく,表現主義的な色使いを好みつつ奔放で自由な表現へと向かう,本当の意味で創作版画の道に入る標となったのではないだろうか。ちなみに,青轄に参加し,富本憲吉と結婚した尾竹紅吉(竹壌の娘)は,今井朝路と知己であった。このような今井朝路や前衛的表現に関心を持つ関学生たち,富本,河合らとの交流こそ,川西英の1920年代中頃以降の爆発的に発展する版画道を地ならししていたと言えるだろう。神戸における創作版画の初期の発生期においては,日本全般における創作版画の気運の高まりだけでなく,ドイツ表現主義が生々しく刺激を与えた可能性があり,美術と音楽を愛するディレッタントたちの交流という文化的に豊かな土壌がその芽を大きく育てたという事態を解明することが本研究の中心を占めるものである。耕された地があったからこそ,1924年から刊行されたWHANGAjを主宰した山口久吉のようなコレクターが登場し(山口とWHANGAjについては今後も調査を続ける必要がある), その後同人誌の枠におさまり切れない,版画のグルーフ。展開催に熱心だった三紅会の謝辞:本稿をまとめるにあたり,川西祐三郎氏,北村信雄氏,関西学院学院史編纂室のご協力を得ました。ここに記して深く感謝しミたします。367

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