鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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6章肥前製の薬査の製品について肥前磁器の薬査の伝世例は少なく,(図1)のほか,出光美術館の所蔵品のわずかしか図録掲載例しかない(注23)。このことは,薬査が消耗され廃棄され易い製品であったこと,また,伝世していてもその歴史資料としての重要性が認識されておらず,とりあげられる機会がなかったことに起因すると想像される。生産地である肥前の古窯からの出土例は現在3古窯からの例がある。ひとつは前述の猿川窯跡からの出土品〔図4)と下白川窯跡〔岡5)および谷窯跡である。白磁製品あるいは染付製品であり,染付製品の文様はいずれも似通ったパターンの幾何学的な文様である。白磁製品は下白川窯から出土しているが,大きさに大小ある。猿川窯からの出土製品の特徴は,器壁が厚く,胴部が若干くびれ,首部と脚部は内傾し,脚部には段がもうけられ,底は平底である。染付の筆致は太く,肩と腰に胴部をくぎる圏線なども太い。一方,下白JIIから出土している製品は猿川製品よりも器壁が薄い。形体も異なり,胴から脚にかけて若干細く削り,さらに底部脇を削りこんで脚部をつくる。底部は緩い碁笥底状をなし,猿川窯製品のように平底ではない。また,染付の筆致は細い。谷窯跡からの出土例は底部のみであるので,全体の形象は不明であるが,底部のっくりは猿川窯製品とも下白川窯製品とも異なっている(注24)。底部中心部は上げ底のように削られているが,下白川窯製品ほど底部脇の削りは明確で、ない。薬査の形態にこのような違いが生じるのは,製作年代が異なり,また,オランダ東インド会社からもたらされた見本が異なっていた可能性があろう。製作年代については,上記の窯からの出土品の中でいえば猿川窯製品が最も古いと考えられる(注25)。下白川窯製品の年代については,1660~80年代の製品と考えられている(注26)。現状では,生産地における出土例は少なく,今後の新たな製品例の窯跡からの発見を期待したい。一方,消費地からの出土状況については,長崎に多くの製品が出土している(注27)。長崎以タトの出土例では,アムステルダムからの出土例(注28),そしてインドネシアではパンテン遺跡およびマカッサルのロッテルダム要塞からの出土例があり(注29), ケープタウンのテーブjレ湾で1697年に沈没したオースターランド号からの出土遺物中にも薬査がみられる(注30)。これらの遺跡はオランダ東インド会社の活動と関連のある地ではあるが,(表2)のとおり薬壷の送り先が専ら会社の医療関連施設であるのに対し,現時点での出土状況はそれと一致しない。このことは,会社の医療関連施設の377

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