鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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猿川窯跡は,同調査による出土資料に1650~60年代と推測されているものが多くみられるのに対し,確実に70~80年代と推測できる資料が出土していない(注33)。よって士士三五小口口口調査例がないことと,その消費状況に原因している(注31)。長崎からの出土については,流通の過程で破損した可能性もあるが,出島における出土は商館員らによる消費が考えられる。消費地から出土した薬査は,会社の医療関連施設から薬を容れる容器として各地に拡散したものであろう。オースターランド号からの出土についても,中にタールを主成分とする膏薬が入った状態で出土しており(注32),航海中の常備薬として備えられたものと考えられる。医療施設の中でも,パタヴイアの薬局については山脇氏も注目し,アジア各地に散在する会社の商館・病院・船舶・市中の薬剤師などが使用する医薬品・薬剤容器の配分を総括する部局であったとしている(山脇p.347348)0 まず第一に,公式貿易の記録にみる限り,磁器の注文を明末清初で磁器の輸出がストップした中国から肥前地方へ切り替える移行期間である1650年代,オランダ,中近東やアジア各地への大量輸出が軌道に乗る1659年までは,在パタヴイア又はタイワンのオランダ東インド会社関連機関向け医療製品が専ら取引されていた。要するに,会社の実用品が商品に先行していたとも言いうる。このことが,会社の目論みに基づくか否かという問題は今後の課題であるが,結果とLて,こうした医療製品の貿易が肥前地方の供給や物流の体制を整え,直後の肥前磁器の大量輸出を導いた,とする仮説を示唆しておきたい。製品研究の領域では,今回は最初期の主力製品である薬壷のみをとりあげたが,この中で,1650年代まで製作年代がのぼり得る資料は猿川窯跡からの出土製品である。この窯から出土した薬壷は初期の薬査に該当する可能性があると思われる。史料にみられる医療製品と実製品とのつきあわせについては,いまだ多くの課題をかかえてはいるが,東インド会社を介した肥前磁器輸出の初期段階で医療製品が重要な役割をもっていたことは明らかであり,製品の正確な編年研究と,製作の見本となった同時期のオランダの医療製品を丹念に比較することによって将来解明されていくものと期待したい。なお,今回は1650年から1679年に対象を限定することとなったが,今後はさらに輸出をうちきる18世紀代までの史料も視野にいれ,製品例を対照するこ378 (藤原)

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