採集された白色陶器片3片が,紹介されている。筆者が実見したところ,それらは茶碗の一部で,胎土は淡い王子色で全体に貫入が入り,不整形の幅広の付高台は,高さが低く,高台内に浅い兜巾があった。この高台の作りは,小山氏の「薩摩焼の研究」図版第51・23の元屋敷窯の採集品とした白色陶片〔図9Jに似ている。会報では,平報告している。御里窯:帖佐宇都窯の閉窯の後に築かれた窯で,島津義弘の御庭窯として稼働した。昭和17年の佐藤進三氏の調査では,火計手の白薩摩茶碗は出土していない(注15)が,火計手の陶土の塊2点を朝鮮白土として掲載している(注16)。加治木町教育委員会が平成7年,13年に発掘調査したが,報告書が発刊されていないため,内容を検討することは後日に譲る。しかし研究会報の帖佐宇都窯の報告では,平成7年の御里窯発掘調査の出土陶片にも小山氏の陶片と同種の白薩摩茶碗の陶片が出土し,帖佐宇都窯の内容と類似していると指摘された(注17)。竪野冷水窯:1620年代に開窯が推定される堅野冷水窯は,肥前に製陶法を学んだ窯といわれている。昭和53年に鹿児島県埋蔵文化財センターが発掘調査し,報告書を発刊した。二ケ所の物原の出土遺物から,この窯が白薩摩焼を中心に多くの器種を焼いた窯であることが明らかになった。年代は物原の状態からは決定出来ないが,最も早い紀年銘資料の間片として,I寛文六年」と染付で書かれた花入が出土している。報告書では出土した白薩摩茶碗は,器形から8種類に分類され,高台の形には正円・片薄・割高台・竹の節高台が見られる。柚薬は,総紬掛けが多いが,高台際に土見せのあるものも少数あることを記している(注18)。藩上屋敷跡から出土している。器形や器壁の薄さ,口縁部や高台部分の作りが似ているものである。そこで竪野冷水窯の茶碗の陶片を比較検討し,三分類することができた。巻き状の削りがみられる。見込みに胎土目(練砂日)がそのまま残り,高台畳付にも成7年の御里窯発掘調査の出土陶片にも小山氏の陶片と同種のものが出土していると第I分類は,器壁が厚い大振りで,高台径が6センチ前後の碗である。高台内に渦1999年に沖縄県久米島具志川村ヤッチノガマの調査で白薩摩茶碗(完品)C図lOJの出土が報告された。この茶碗に類似した茶碗陶片が,竪野冷水窯〔図11Jと港区島津-392-
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