鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
404/670

注台は,伝世の茶碗の高台とは異なっていた。これらの窯から出土した陶片の高台は不整形の付高台だけで,伝世の白薩摩茶碗に見られる,車鹿瞳による削りだし高台は見つかっていない。伝世品の白薩摩茶碗に似た高台をもっ陶片が出土している窯は,現在のところ堂平窯と竪野冷水窯の2ケ所である。山元窯は白薩摩焼を焼いていないが,山元窯の褐粕茶碗と白薩摩茶碗の成型方法が似ているので,山元窯の稼働時期と竪野冷水窯,堂平窯の稼働期が同じ時期であったと考えられる。それ故に伝世の白薩摩茶碗は,朝鮮陶工が持参した土から作ったという17世紀初期の作品ではなく,17世紀中葉以降に肥前の茶碗製法の技術をもって作られたものと考えられる(注31)。種を中心に)と類似した技法で製作されたやきものの一群があった(注32)。これは白薩摩茶碗の製作が,九州一円で行われていたやきもの製作の機運の一環と考えられる。これまで薩摩焼の研究は,鹿児島中心に研究を続けてきた。しかしながら薩摩焼を九州のやきものの流れの中に組み込み,研究することが必要なことは云うまでもない。今後は黒薩摩焼の茶碗を調査し,広く薩摩焼の全貌を明らかにしていきたい。(1) I火計手」とは「陶工と陶土が朝鮮のもので窯の火だけが鹿児島のもので作られた」やきものという意味。「火計手」については明治以前の古記録には見つからないが,明治期にだされた『薩摩陶磁器伝統誌.1r薩摩陶器濫鱒.1r府県陶器沿革伝統工統誌J等に記載が見られる。(6) 佐藤雅彦氏は,竪野冷水窯の出土陶片から竪野冷水窯の稼働期が17世紀初期ではないことを述べている。(1薩摩Jr世界陶磁全集7j小学館1980P.206-207,284.) また矢部良明氏は最も代表的な伝世品,白薩摩蓮葉文茶碗をとりあげ,具象の文様を陽刻でいれた作風に着目し,Iこの茶碗は17世紀後半から18世紀初頭,延宝か17世紀第3四半期に肥前内野山北窯と福岡県菜園場窯祉に,白薩摩焼(特に皿の器P.11-12 (2) r日本間窯史薩摩焼総鑑』昭和9年(1934)(3) 前掲書P.13-14(4) r薩摩焼の研究』昭和16年(1941)P.23 (5) I古薩摩お里窯発掘に就いて」東洋陶磁研究所報告書『陶磁J第14巻第1号1942 -395-

元のページ  ../index.html#404

このブックを見る