(7) 東京都港区三田の薩摩藩上屋敷跡遺跡は,寛永期から幕末に至るまで長い間藩邸(8) 一般的な砂目の粒状のものではないが,陶土の塊でもない目跡である。細かい砂(9) r熊本大学文学部考古学研究室研究報告』第1集1994 同P.24の表図版第8. 16番の陶片。抹茶茶碗底部の陶片で,高台に切れ込みがあら天和・貞享・元禄にかかる時期の作と判断する特色を持っている。Jと指摘した。「薩摩」平凡社『日本陶磁大系J1989 P.133-136 があった場所で,多くの遺物が発掘調査されている。17世紀中葉以降の層から白薩摩茶碗は器形の変化を伴いながら出土例が確実に増加していく。白薩摩焼に限らず,薩摩焼の全体量が確認され始め,増加してゆくのが17世紀後半の港区島津藩上屋敷跡の出土遺物の様相といえる。状の練ったような物ではないかと考えられる。肥前嬉野町内野山北窯と福岡県菜園場窯E止出土の玉子手のやきものに同じ胎土目の種類がみられる。(10) 串木野窯の白薩摩茶碗で火計手と呼ばれ,最も古い茶碗として紹介されているu日本のやきもの16薩摩JP. 5)。筆者は実見していないので高台内の作りなど詳細は不明だが,この茶碗と同じ字が鉄粕で記されていることから,この作品と同様な製作年代と考えている。た,鹿児島県阿久根市の磁器窯)の発掘調査以降平成13年までに考古学の窯祉発掘調査は11箇所行われている。(12) 義弘が開窯後すぐに陶工を瀬戸へ製陶修業に行かせた話は,薩摩焼史の文献には必ず記されている事項であるが,時期などについて確証はない。る。図版からは高台の形や胎土の貫入の状態は確認できない。この陶片は現在所在不明である。(14) rからからJ1号1998 鹿児島陶磁研究会(15) 灰鼠色の高台部分の茶碗の陶片1片が採集されている。P.21(16) 図版728番「古薩摩お里窯発掘に就いて」東洋陶磁研究所報告書『陶磁J第14巻第l号昭和17年(1942)。その他に「火計士茶入陶片J2点を図版に収録。それらの一部が現在出光美術館に保管されている。その出土した白土は白灰色できめが細かい粉状の塊である。これとは別に平成13年に窯祉付近から採集された白ω 薩摩焼の窯E止は昭和9年に東洋間磁研究所の依嘱を受けて,小山氏が調査を行ってから40年間ほど調査は行われなかった。昭和47年の脇本窯(18世紀後半稼働し
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