鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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ウtqJ カfある。土について,陶土であるかどうか科学的な分析を行った結果,成分は朝鮮カオリンに近いことが判明したが,陶土としては難しく,粕薬としてなら使用できるという結果がでた。また水簸後の残さいの可能性も指摘されている。南日本新聞(17) rからからj1号P.5同『竪野冷水窯跡j1978 P.22-29 同伝世品の茶碗につけられた「千鳥印jだけではなく井桁印など,印は多種にわたる。倒「千鳥印」は多種だが,その他の印はみられない。同鹿児島県立埋蔵文化センターの池畑耕一氏によって平成10年(1998)埋文友の会(1埋文友の会」会報V01. 26 P. 1 -4 )と平成11年(1999)九州近世陶磁学会において発表され,資料と遺物が紹介されたが報告書は未干Ij。同『薩摩焼の研究JP.178 (羽『加治木古今雑撰』によって開窯時期が寛文期に推定される。(r山元古窯跡J鹿児島県姶良郡加治木町教育委員会1995 P.111-112) 凶前掲書P.24制掛け分け軸の茶碗1点と土見せの柚掛けの茶碗l点が採集されている。同白薩摩茶碗に黒紬を流しかけた伝世品の茶碗「立鶴文茶碗J(東京国立博物館所蔵)帥「宗湛日記Jr茶道古典全集第六巻』淡交新社,1959年凶『鹿児島県史料旧記雑録後編四jp.523 陶工名の入った「伸次焼jとの記載がある。どのような茶碗かは不明。凶『加治木古今雑撰』宝暦12年(1762)加治木町が保管。同17世紀前半の窯についての文献資料『星山家譜jr称名墓誌』などは,18世紀以降に書かれているため,伝承として参考資料の扱いをしている。『星山家譜jr称名墓誌』をもとにして江戸末期・明治期に薩摩焼史『立野並苗代川焼物高麗人渡来在附由来記j1823 r薩陶製蒐録j1885 r云国名勝図会J1905などがまとめられた0(31) 窯跡出土の窯道具及び窯構造からもそれを証する。薩摩焼の窯で肥前連房式の窯が最初に取り入れられたのはこの三窯である。『竪野冷水窯跡jP.11-19, 52-64 「埋文友の会JP. 1 -4 r山元古窯跡jP. 14-17, 110. 窯E止の発掘調査から肥前連房式の窯E止が明らかになり,帖佐宇都窯,御里窯では使われていなかった窯道具1999. 11. 15

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