鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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かれることに,ためらいや気後れを全く感じていないことを示している。「自らはこのように描かれる価値がある」という自負心が,作品に表現されている。それでは,(ブラデリン祭壇画〉に描かれている寄進者には,(宰相ロランの聖母〉と同じような意味が込められているのだろうか。〈プラデリン祭壇画〉が注文された状況について考えてみたい。制作年代に関しては,決定的な史料はなく,研究者によっても若干のばらつきがあり,1440年代半ばから1450年代半ばと考えられている(注11)。この作品を発注したと考えられている,ピーテル・ブラデリン(注12)は1410年頃ブリュージュで生まれ,1472年に没している。ブルゴーニュ公の下で、勢力を伸ばし,主に財務関係の仕事を任されていた。地位こそ宰相には及ばないものの,金羊毛騎士固に所属し,外交上でも手腕をふるった。主な外交官としての業績には,次の二つが挙げられる。まず最初は,シャルル・ドルレアンの解放である。シャルルは,1415年,アザンクールの戦いでイギリス寧の捕虜となり,以後20年に渡ってロンドンに幽閉された。ブラデリンは,イギリス国王ヘンリ一六世の姪であるポルトガルのイザベラの助力により,身代金を支払って,シャルルをイギリスから脱出させることに成功した。二つ目の業績は,1445年,百年戦争の終結を目指し,平和条約を締結するために,ブルゴーニユ公の大使として,命を受けたことである(注13)。しかしながら,ブラデリンの生涯において,最も大きな業績は外交上のものではない。個人による都市の建設という,中世以来,稀にみる大事業を行っているのである。ブラデ1)ンが自分の私財によって,都市を建設しようとした最大の原因は,妻マルグリートとの聞に子供ができなかったことであると考えられている。ブラデリンは,ブリュージュの東20キロほど離れた場所を,義兄であるコラート・ド・フェーヴルより購入する。この土地は,元々ゼーラントのミッデルブルフの修道院が所有していたもので,この修道院が建物の修復等のため,1427年に,売却許可を申請したものである。ブラデリンは,元の所有者の名前をとり,この土地をミッデルブルフと名付け,居城と教会を建てた。城は1448年頃から建設が始まっている。〈ブラデリン祭壇画〉は,ミッデルブルフに建てられた,聖ベテロ・聖パウロ聖堂に設置されるため,作られたと考えられている(注14)。このように,プラデリンはブルゴーニュ公園内でかなりの実権を持っていたが,宮407

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