鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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廷内でブラデリンの頭上には燦然と輝く星があった。それが宰相ロランである。ブラムはブラデリンが所属していた金羊毛騎士団について,次のように述べている。i(ブルゴーニュ)公は,この排他的で,通常24人に制限されている集団(ニ金羊毛騎士団)の助言に,宮廷の他の誰よりも耳を傾ける,ただし宰相ロランを除いてだが。(注目)Jブラデリンがどの程度,権力に対し野心を抱いていたのかはわからない。確かに彼は,宮廷で様々な役職に就き,ブルゴーニュ公に対して強い影響力があった。同時に強い信仰心と,ミッデルブルフの統治者として,領民に対する思いやりの念を持っていた。例えば,次のようなエピソードが残されている。現在ベルギー中南部に位置する都市デイナンでは,ブルゴーニュ公に対し反乱を企て,公の怒りを買い,大虐殺にあった。その難民を,ブラデリンは,ミッデルブルフへ移住させる許可を,公から取り付けている(注16)。このようなことから,ブラデリンには,個人的な使用目的による礼拝閲像を作らせる際に,<宰相ロランの聖母〉のような,大胆な表現を選ぶことができたのではないか。ブラデリンがこのような作品を依頼する際に,当時最も有名な画家であったロヒール・ファン・デル・ウェイデンに依頼することは,ブラデリンの地位,ロヒールの画家としての地位共に考慮しても,当然のことであっただろう。なぜならば,ヤン・ファン・エイクは1441年に没しておりその後ブルゴーニュの宮廷画家の地位は空席となっていて,かつ宮廷の置かれていたブリユツセルの画家として,ロヒールが活動していたからである(注17)。ブラデリンより作品の依頼を受け,ロヒールが念頭に置いたのは,<宰相ロランの聖母〉であっただろう。この作品がロヒールに対し,強い影響を与えたことは明白である。ロヒールによる〈聖母子を描く聖ルカ>(ボストン美術館,[岡4J)は,聖母子の位置が左右逆になっているが,背景の二人の人物,風景等,図像の起源は〈宰相ロランの聖母〉であることは疑うべくもない(注18)。デ・フォスは,<宰相ロランの聖母〉の制作時期に,ヤンがブリユツセルで、制作を行っていたことから,ロヒールが直接この作品を目にしていた可能性を示唆している(注19)。注文主のピーテル・ブラデリンは,自らが手にすることの出来なかった,宰相という,俗人としては最大の権力を手にした人物が描かせたものと,同じような作品を手に入れたいと願ったのだろう。この二人の人物には強い権力・豊富な財力・キリス-408-

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