戦としても歴史的に意義あるものだ。実際,1960年代にはポップ・アートの芸術家達が大衆文化の物語性をより露骨に借用する一方で,ミニマリズムの芸術家達は時間性をその彫刻制作に取り入れた。彼らがラウシェンパーグの直立型コンパインから発展させた,人体サイズの作品を床に直接設置し観者にその周囲を歩かせるという手法は,マイケル・フリードが後に「劇場性J,つまりモダニズム芸術に対するアンチテーゼとして攻撃したものに他ならなかった(注6)。スタインパーグはまた,垂直から水平への移行とともに美術の主題が自然から文化へ移行したことにも同等の歴史的重要性が見いだせると論じており,この観点からもコンパインを考える必要がある(注7)。ラウシェンバーグが作品に取り込む文化の切れ端は,現代文化に特徴的な匿名性や人工性を有すると同時に,アメリカ文化特有の意義を帯びてもいる。実際,<無題〉においては大衆文化から取られたイメージがナルキッソスやイカロスの代役として使用される一方で,自由の女神や星条旗など,アメリカのイコン的なイメージも散見される(注8)。しかし,パラシュートを追う兵士の左側に見られる自由の女神像は安価な絵葉書だし,作品の土台部分に認められる星条旗も板の厚みに合わせて切り取られて断片化しており,これらのイコンは,それらが大量生産,大量消費される第二次世界大戦後のアメリカ文化の様相を示唆しているかのようだ。従って,<無題〉において最も象徴的に並置されているのは,実はアメリカ文化とギリシャ神話,さらにはそれに代表されるヨーロッパ文化であるとも言えるだろう。この指摘は1956年の〈小さな判じ絵)(図5Jと呼ばれる絵画型コンパインにも明らかだ。というのも,この作品はほぼ中心で左右に分かれる構図を取っており,その境界線上にギリシャを含むヨーロッパの地図とアメリカ中西部の地図が並置されているからだ(注9)。ヨーロッパ地図を含む画面右側をラウシェンパーグの家族や陸上選手の写真など「アメリカ的な」イメージが占める一方,余白の多い画面左側はアメリカの地図を含みながらも〈エウロパの略奪〉の複製や闘牛の写真など「ヨーロッパ的な」イメージが貼り付けられ,地図の位置とは反転する形で各文化の図像が並置されている。では,この異なる文化の並置から観者は何を読みとるべきなのだろうか。考察を〈無題〉以外の作品に広げて検証していこう。まず,<灰色の羽のある絵画)(図6Jには大振りの灰色の羽が麻紐でカンヴァスに括り付けられており,その羽は矢印のようにまっすぐ下を向いてマンハッタンの摩天-33-
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