鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
424/670

A斗a③ 祇園祭礼図の系譜一一17世紀を中心に一一しかし,豊臣秀吉(1537~98)が政権を確立すると,祇園会は大きな転機を迎える。月鉾には円山応挙(1733~95),長刀鉾には松村景文(1779~1843)の作が各々現存し研究者:京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程八反裕太郎はじめに京都の文化を代表する祇園会は,平安京以来の伝統を誇る祭礼である。都の景気を描いた洛中洛外図にも,祇園会は必ずといってよいほど何らかの形で描出されている。都の盛況を表現するに当たり,祇園会は欠かせないものであったといってよい。それにも拘らず,祇園会を描く祇園祭礼図の研究は,殆ど進展していないのが現状である(注1)。そこで,祇園祭礼図や洛中洛外図などに見られる祭礼描写を検討していきたい。その上で,17世紀を中心とした祇園祭礼図の系譜について考察していくこととする。一江戸幕府による祇園会の規制狂言『畿罪人Jに見られるように,中世の祇園会では,各山鉾町で資金を出し合って毎年異なる山鉾を出していた。鯉山や橋弁慶山の原型と思われる山が『鏡罪人』に既に登場することは注目される。また,r祇園社記』に見られるように,中世には58基もの多種多様な趣向を凝らした山鉾が登場していた。神を慰撫する為に,毎年異なる趣向を凝らす風流を第一義とした山鉾の姿が,これらの史料から窺われる。それは,秀吉が寄町制度を作った為である。これは,複数の町が資金を出し合って1つの山鉾を出すという制度である。これにより,資金面の問題は解決されたが,r薮罪人』のように毎年異なる趣向の山鉾を出すことは不可能となった(注2)。こととなった。山鉾の形状を変更する際には,幕府に申し出て許可を取らねばならなくなったのである(注3)。この禁令によって,山鉾の形状は完全に固定化された。さらに,天和3年(1683)には,祭礼時の随行人の長万,長鑓などの武具携帯が禁止され,町衆の服装も持に改められた。この結果,染織や金具,螺鋼細工に町衆の目が向くようになった。装飾化への道を辿る山鉾の姿が窺われる。その後,18世紀に入ると,鉾の屋根天井の軒裏に著名な絵師による装飾的な絵画が描かれるようになる。17世紀に入札江戸幕府による支配体制の確立は,山鉾の性格をさらに一変させる

元のページ  ../index.html#424

このブックを見る