つ。~ 1650)のような医師によって,南蛮医学は急速に国内に広まっていった(注4)。特を2人掛かり(合計4人)で支えている様子が描出されている〔図2J。鉾に比べて,ている。これらの規制により,御霊会という山鉾巡行の本来の意義が喪失されていくのは,当然の傾向だったといえよう。近世初期には南蛮人が度々来航し,南蛮流の医学が日本に移入され,沢野忠庵(1580に,南蛮流の外科技術は,日本の医学に多大な影響を与え,飛躍的な進歩を遂げた。従来の日本の医学では,疫病や飢鐘を怨霊によるものと考えられてきた。南蛮医学によって,それまでの考えが否定されて改善された結果,町衆の御霊会への意識が変化した可能性もある。南蛮医学の流入により,日本古来の医学観が変質した点も,祇園会のフェステイパル化現象を考える上で視野に入れるべきであろう。続いて,祇園祭礼図や洛中洛外国などの遺品に,どのように祇国会が描出されているかについてキ食言すしていきたい。三諸作品に見られる祇園会の描写検討江戸幕府の規制に即応するかのように,17世紀以降の作には,祇園会の描写に新たな特徴が出始める。その特徴を纏めたものが〔表1]である(注5)。まず,鉾上の稚児の頭に花飾りが描写されるようになる。特に,寛永前半期制作の「祇園祭礼図扉風J(6曲l双京都国立博物館蔵)には,頭よりも遥かに大きな花飾りが描かれている〔図1J。しかし,寛永後半期以降の作には,次第にこの花飾りは描かれなくなる。京博本のような大きな花飾りは,管見の限りでは寛永前半期の作のみに見られる画証である。おそらく,[表1]に見られるように,この花飾りは出し花(鉾の屋根破風の装飾)へと次第に変化していくものと考えられる。室町末■桃山期制作の「祇園大政所絵図J(2曲1隻個人蔵)には,琴破山の側面山には車輸が付いていない為,形状的に不安定である。巡行時の振動による倒壊を防止する為に,棒で支える必要があったと考えられる。その後,山鉾造営技術の向上,寄町制度による資金調達の充実などで,次第に山鉾自体も巨大化し,強固で、安定していく。それに伴い,17世紀初頭には山の側面を棒で支える必要がなくなったのであろしかし,寛永末期の作品から山の内部を棒で支える人が描かれ始める。嬉嬉とした-416-
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