鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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l双個人蔵)に描かれている〔図3)。この表情から判断すると,17世紀後半には山表情で山内部を棒で動かす様子が,桃田柳栄(1647~98)筆「祇園祭礼図扉風J(6曲の人形を動かすからくり目的の棒へと変化していったと考えられる。〔表1)からわかるように,寛永前半期制作と思しい作を境にして,山鉾の特徴が大きく変化していく。寄町制度や江戸幕府の規制が大きく影響したと思われる。林屋辰三郎氏は「寛永文化」との見解を初めて提示した上で,寛永期を「中世と近世の交差点」と表現している(注6)。祇閏会における中世から近世への過渡期の様子が,寛永前半期の作(山岡家本,京博本)に的確に描出されていると考えてよれ。また,白幣から金幣への変化は,幕府の規制が多大に影響していると推測される。その結果,祇園会のフェステイパル化が著しくなり,山鉾の装飾化が進んだのだろう。医学の進歩や幕府の規制により,17世紀に入って祇園会は本来の御霊会としての役目を終えたのかもしれない。文字通り,祇国会から祇園祭へと変貌を還げていくとみてよい。しかし,本来の風流の思想、を忘れずに智恵と工夫を重ねる町衆の姿には,一驚させられる。遊戯具の小さな鉾が描かれているのみで,山鉾巡行の様子は描写されていない。また,「浩中洛外図扉風(舟木本)J (6曲1双東京国立博物館蔵)は,山鉾は描かれず,その代わりに巨大な母衣を背負った武者練り物が描出されている。このように,山鉾巡行を描かない作品は,17世紀初頭の江戸幕府の祇園会規制が影響しているのではなかろうか。続いて,神輿と駒形稚児の描写について纏めたものが表2である。特に京博本には,3基の神輿の形状を全て描き分けている。その上,その呼称を逐一,貼札を付けて説明している(注7)。また,駒形稚児の位置は異なるが,京博本の神輿の順番は,宝暦7年(1757)刊の祇園会の本格的な総合解説書『祇園会細記』と同一であり,京|専本の的確な描写が窺われる。このことは,Iみこしたい持J,Iみこしたちもち」と貼札を付けてまで,神輿に供奉する人物を表現している点からも認められる。ここで,特に異彩を放っ祇園会の描写が見られる3作品を別個に取り上げて考察を行いたい。まず,1点目の作。17世紀初頭制作の「洛中洛外図扉風J(6曲1双高津古文化会館蔵)は,二条城天守を2つ描き,諸社寺は特定できないほど,その配置は意表を突17世紀初頭制作の「洛中洛外図扉風J(6曲l双出光美術館蔵)には,子ども用の

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