くもので,建築的,地理的整合性を欠く描写である。また,右隻上に左隻を乗せれば図様が繋がる破天荒な構図を持つ作である。だが,長万鉾の辻回し見物に群がる人々,大仏殿門前での生彩のある殺傷沙汰など,殊人間に関する描写には実感溢れるものとなっている。狩野派や土佐派などとは全く異なる稚拙かつ素朴な高津本の画風は,正統的な画技を身に付けていないと等閑視されてきた(注8)。しかし,祇国会の表現は睦目すべき描写内容である。2基の神輿が烏丸通を南下する様子は,管見の限りでは他作例に見られない描写である。『八坂誌坤』巻13所収「神幸行列の事jの神輿三基の内一基は東洞院を北へ二条通を西へ大宮通を南へ巡り二基は烏丸通を南へ松原通を西へ大宮通を北へ三条通にて三基合列しとの記述内容に合致する(注9)。杜撰な表現ではなく,実際の祇園会に沿った描写とわかる。洛中浩外図の遺品としては珍しく,高津本には,五条河原での芝居小屋のみが表現されており,四条河原の小屋は描出されていない。地理的整合性を全く欠いた建築描写に比べ,祇園会や芸能に関する描写は正確で、あるといえよう。また,二条城や三十三間堂と比べ,御所は稚拙ながらも的確に描写しようと心掛けている。芸能者は,御所に白芸の売り込み目的で参入し,その愛顧を受けようと努めていたという(注10)。おそらく,高津本の筆者は描画を生業としていない者なのだろう。芸能に携わる人物の作と考えられる。南禅寺南の河原者の村(天部村)を克明に描写している点からも,そのことは推測できょう(注11)。続いて2点目の作である。山岡家本「祇園祭礼図扉風J(6曲l隻)は寛永初頭期の土佐派の作である(注12)。金彩は抑制されており,全体的に穏やかな印象を受ける。しかし,祇園祭礼図の流れを考える上で,2点の看過できない事柄を描出している。まず,放下鉾の鉾竿が他鉾よりも長く描かれている点が指摘できる〔図4J。放下鉾の鉾竿は他鉾よりも長い為,江戸初期には,あほう鉾とのあだ名で呼ばれていたという。このあだ名は,その高さがあまりにも高く,あほほど長いという意に由来しているらしい。当時の俳請書には,このあほう鉾について詠んだ俳譜が見られる(注13)。放下鉾は,寛文年間の胴組重修の際,真木を約2間切り縮めたと伝わる。寛文以降,12間5尺l寸だ、ったのを考えると,それ以前には約14間5尺ほどあったことになる。-418-
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