鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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つ。このように,放下鉾が他の鉾と区別されて描出しているのは,管見の限りでは山岡家本のみの画証である。山岡家本が実際の祇園会の様子を忠実に描写しているといえよ山岡家本の第2の特徴であるが,それまでの絵画作品と比べて,山鉾の懸装品がかなり撤密に描かれている点が挙げられる〔図5J。しかも各山鉾の懸装品は同じものが見られないほど丁寧に描いている。この懸装品の描写は,寄町制度や幕府の規制化に伴う山鉾の装飾化現象を知実に示しているのではなかろうか。最後は,京博本についてである。左隻は金雲によって画面が二分され,画面上段は三条通を南から北へ見た視点,画面中・下段は寺町通を西から東へ見た視点となっている。同画面内で視点を変化させている作は,管見の限りでは京博本以外に知り得ない。また,三条通を東進する3基の神輿を描く絵画作品は珍しい。その他,三条通で四座雑色(半官半民の下級役人)が,祇園会を監視する表現が見られる。このように京博本は祇園会の公的部分を可能な限り具現化しようとする意図が見られる為,祭礼史研究において貴重な絵画史料となろう。また,誓願寺と大雲院での京都所司代の桟敷が,京博本には的確に描出されている。この桟敷の描写は,他作例に見出し得ないもので,京都所司代・板倉家が京博本制作に関与した可能性も考えられよう。祇園会の地元京都で作画活動した京狩野には,意外にも祇園祭礼図の作例が殆どない。管見の限り,京狩野と推定される元禄期の作(6曲l双)が出光美術館に所蔵されるのみである。このように,山楽や山雪,永納を初めとした京狩野の作例は皆無に等しい。逆に,江戸を中心に活動した江戸狩野には,前述した桃田柳栄や加藤遠津(1643 ? ~ 1730),狩野主信(l675~1724)の作例が現存しており,好対照で意外な印象を受ける(注14)。京都に在住する京狩野であれば,注文が多かったであろうにも拘らず,祇園祭礼図の作例が殆どない点は注目される。祭礼に対して,幕府が度々禁令を発布したのは前述した通りである。庶民の楽しみの場であった祭礼さえも,江戸期には幕府の完全な管理下に置かれていた。江戸期の祭礼は,幕藩体制の一部に組み込まれたとみてよい。その為,体制側の絵師・江戸狩野の画家が祭礼図を描くのは当然の傾向であったといえよう。祭礼と幕府が密接していた為,幕府直属の御用絵師の江戸狩野が祭礼図という画題を牛耳っていたとみてよい(注15)。そのような中,御所の障壁画(寛丈度造営)に初めて祇園会を描いた絵師419

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