注が,江戸狩野や京狩野ではない海北友雪(1598~1677)であったのは興味深い。桃田柳栄は,探幽四天王の1人として活躍した画人で,薩摩藩の御抱絵師であったことで知られる(注16)。前述の柳栄画に描かれた3基の神輿の渡御順番は,表2の通り,r祇園会細記Jと一致する。その上,屋根の形状の描写は正確である。さらに,蕨手上の小鳥,屋蓋の屋根紋,荘厳金具は精織で的確な描写となっている。粉本を転用して制作されたとは思えない表現が施されている。このような的確な描写から,薩摩,江戸を基点に作画活動を続けた柳栄が,わさずわざ祇園会を実見し作画に臨んだ可能性が極めて高い。良質な顔料,金を使用していることを勘案すれば,柳栄筆本は何らかの特別な制作背景があると思われる(注17)。遠津筆本同様に,やや小振りな扉風である点から考えると,柳栄筆本も婚礼に関連した女性向けの作品として制作された可能性もあろう。おわりに以上,検討してきたょっに,幕府の規制や医学観の変質に伴い,17世紀に祇園会の在り方が変質し,急速に装飾化する様子が絵画作品に虹実に表現されていることが認められた。近年,研究分野の垣根を越えた学際的連携が進捗し,美術史,祭礼史の密接な相互研究がされつつある(注18)。本稿が,そのような研究の一助となれば幸いである。(1) その理由として,祭礼に関する予備知識がなければ,その絵画作品の研究が困難なことによる。近世初期風俗画の中で,祭礼図と並んで合戦図も,美術史からの研究は殆ど進展していないのが現状である。松下浩氏の「戦国合戦図扉風は美術史の上では一般に風俗図の分野に属するようであるが,治中洛外国などにくらべてあまり研究対象とはなっていない」との指摘がある。同「長篠合戦図扉風にみる織田信長一信長観読みとりの試みJ大阪大学文学部日本史研究室編『近世近代の地域と権力』清丈堂,1998年(2)松木順「祇園会に於ける寄町制度Jr経済史研究j24巻3号,1940年(3)吉田光邦「祇閑会と装飾性の意味j祇園祭土芸研究会編『祇園祭工芸名品集上J芸州堂,1971年420-
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