(4) 沢野忠庵は,クリストヴァーノ・フェレイラという名のポルトガル人である。慶(5) もちろん,洛中洛外図のように描写対象が小さい場合,若干省略して表現した可1971年,京都府医師会編『京都の医学史本丈篇』思丈閤出版,1975年,森谷魁;長期に来日し,キリスト教禁教令の強化された寛永4年(1627)から5年間,イエズズ会日本管区長の職に就いた。その後,捕縛されて棄教,禅宗に帰依している。日本に帰化し,日本人女性と結婚,沢野忠庵と改名した。棄教後は,我が国の医学発展に多大な貢献をし,その門下からは杉本忠恵や西玄甫,半田順庵などの医師が輩出された。尚,忠庵には,r南蛮流外科書Jという著作がある。南蛮医学の日本への伝播に関しては以下の諸論考に詳しい。古賀十二郎『西洋医術伝来史』日新書院,1942年,服部敏良『室町安土桃山時代医学史の研究』吉川弘文館,久『京医師の歴史日本医学の源流j講談社,1978年能性は考慮すべきであろう。本表には筆者名,制作年代などがわかる作品,新出作品を中心に纏めた。ただし,粉本の転用が顕著に見られる作品は除外した。尚,表中の「御幣」の項にある「前Jとは噺台前方の欄縁にある御幣のこと,1後」とは轍台後方の欄縁にある御幣のことである。また,上杉本の制作年代は,黒田日出男氏の見解を採用した(同『謎解き洛中浩外図J岩波新書435,1996年)。それによると,r御書集』天正2年(1574)3月条に,永徳が永禄8年(1565)9月3日に描き終えたとの記述があるという。『御書集』自体,江戸初期の写本であり,どの程度信頼できるかは検討の余地があろう。しかし,描き終えた年月日まで記載している点は,文献史料としては稀有の存在である。「御書集Jの筆者にわざわざ記載させるほど,上杉本は衝撃的な作品であったといえよう。その為,上杉本に関する『御書集』の記載内容は信ずるに足ると考えられる。(6)林犀辰三郎「寛永文化論日本的伝統の起源をたずねてJ r立命館文学j98 号,1953年。後に,同『中世文化の基調』東京大学出版会,1953年に再録。(7) 寛文2年(1662)刊『案内者j(朝倉治彦編『仮名草子集成二』東京堂書庖,1981年に全文翻刻)に,I三座の神輿Jとあり,I素蓋鳴尊牛頭天皇,又,武答天神とも申J,I婆利女稲田姫也,又,少将井と云J,I八将神但,八岐の蛇ともいへりJと各神輿の通称が記載されている。しかし,京博本の貼札名は異材、である為,京博本での名称は注目されてよい。(8) そのような中で以下の三氏が,画人がいかなる者か推測を試みている。武田恒夫421
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