鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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いが,春日若宮祭(奈良の春日大社の祭礼)を描いた狩野探幽(1602~74)の扉氏は,地方絵師又は古絵図に練達した画人を想定している。また,辻惟雄氏は,奈良絵本に通有する画風から奈良絵本制作に従事していた画人を想定している。奥平俊六氏は,地方で簡略な絵仕事に従事し,欄干の塗装などを請け負う者との可能性を示唆している。京都国立博物館編『洛中浩外国』角川書庖,1965年,辻惟雄『日本の美術121 洛中洛外図』至文堂,1976年,奥平俊六「ミヤコの路地裏3 都市の実感jr古今日本美術誌j2000年夏秋号(9) r八坂誌坤』八坂神社,1906年帥小笠原恭子『出雲のおくにーその時代と芸能』中公新書734,1984年,II ~ 13頁ω この河原者の村(天部村)については,源域政好「洛中洛外図にみえる河原者村についてjr京都部落史研究所紀要J2号,1982年に詳しい。同作品名は武田恒夫氏が洛中洛外国としている(京都国立博物館編『洛中洛外図』角川書庖,1965年)。確かに,知思|昆や方広寺大仏殿まで描かれているのは,洛中洛外図的要素を留めた表現である。失われた左隻について,I二条城を中心とする行幸か参内の行列を大きくあつかったものであろう」と武田氏は推定している。しかし,現存隻(右隻に相当)には,先祭の山鉾巡行が全て描出されている。その為,現存隻の描写を勘案すれば,左隻には後祭の巡行が描かれていたと考えられる。以上のように,描写内容は祇園祭礼図とみてよい為,本稿では作品名を祇園祭礼図とした。(13) 寛文7年(1667)刊『続山の井』には重香「つのめだ、つ警固やらせつあほう鉾j,延宝8年(1680)序『洛陽集Jには順也「あほう鉾真長ければ恥多しj,一楽「のけぞって見るや余所目にあほう鉾j,元禄4年(1691)刊『俳諸勧進帳』には波柱「祭見にまかれりければあほうほこ」とある。また,正徳3年(1713)序『滑稽雑談』には「昔より此鉾先いたって長し,俗に阿房鉾と称す」との記述も見られる。(14)柳栄には,前述の「祇園祭礼図扉風j(6曲1双個人蔵),遠淳は,r祇園祭礼図騨風j(6曲I双金沢市中村記念美術館蔵),また,主信には,r祇園祭礼図巻」( 1巻大坂青山歴史文学博物館蔵)が現存している。さらに,京都の祭礼ではな風(6曲l双奈良県立美術館蔵),狩野柳雪(生没年不詳)の扉風(6曲1双プライス・コレクション蔵)も現存している。橋本綾子「新出・桃田柳栄筆「祇園祭礼図扉風Jについてjr国華J1055号,1982年,薮下宏「金沢市立中村記念美422-

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