鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
438/670

⑧ 17・18世紀中国・日本の輸出磁器における柿右衛門様式の位置研究者:広島県立美術館学芸員福田浩子はじめに有田の磁器は1616年(元和2)に陶工・李参平が泉山で陶石を発見し,天狗谷窯で焼成したことに始まるといわれている。その後1640年代になると色絵も行われるようになり,いよいよ有田の隆盛が始まるのである。現在も磁器生産の一大産地である有田焼の中でも,I柿右衛門Jは際だ、って人気が高く,ロマンティックに語られることが多い。その理由は,乳白色の素地に余白を生かした色絵の優雅さであったり,江戸時代に世界で評価された日本の陶磁器を代表するものとしてであったりする。筆者は東西交渉史の立場から17・18世紀の中国・日本の輸出陶磁を研究してきたが,勤務館が柿右衛門様式による作品を3点所蔵していることから,今回の研究テーマとした。本報告では,柿右衛門様式について,同時代の磁器生産の偉大なライバルである中国の動きも捉え,さらに,壷や鉢といった「用jの機能を持つ器と装飾物・置物として「鑑賞」の機能を持つ彫像のあり方についても考えつつ,柿右衛門様式の位置づけを考察したい。さて,I柿右衛門」あるいは「柿右衛門様式」という言葉と作品のイメージは決して同時代からのものではない。比較的新しく,大正時代に入ってからである。江戸時代には,r和漢三才図絵J1713年(正徳3)および『睡余小録J1807年(文化4)に見られるだけであり,前者では絵茶碗の制作者として加喜衛門の名が紹介され,後者では文章とともに色絵婦人像の図が示されている。明治時代には,r工芸志料J1878年(明治11),r観古図説j巻七1880年(明治13)に五彩と金銀彩を始めたと記述が現れる。大正に入って,彩査会編『柿右衛門と色鍋島J1916年(大正5)が刊行され,現在の柿右衛門様式観がほぼ固まってきた(注1)。つまり,柿右衛門様式とは乳白色の素地に余白を生かして絵画的な上絵付が施されたものという概念である。また,柿右衛門窯ですべての柿右衛門様式を制作していたのではなく,有田の他の窯でも作られていたことも知られるようになる。そして,一般的なイメージが確立されていく明治・大正期に,柿右衛門研究とは別のところで柿右衛門伝説が作られていることにも注目したい。「柿右衛門伝説jとは柿の赤い色を絵付けするために努力と苦労を重ねて成功した陶429

元のページ  ../index.html#438

このブックを見る