工柿右衛門の物語である。明治時代に作られた物語は戦後も広く流布し読まれてきたが,深みと華やかさを併せもつ色絵焼成の苦心については,実は16世紀フランスの陶工ベルナール・パリッシーの自伝をもとに陶芸家・板谷波山の逸話などを脚色して創作したものであった。1912年(大正元)上演の戯曲「名工柿右衛門」をはじめ,1920年(大正9)に樫田三郎による「陶工柿右衛門」が著され,1922年(大正11)には「小学国語読本」にも採録され,一般に浸透していった(注2)。この印象深い物語こそ,日本陶磁史上に功績を残した色絵創始者として,柿右衛門の名と作品のイメージを一般的にした大きな要素といってよいだろう。そして,昭和・平成と柿右衛門様式に関する論著は増大していく。同時に,海外からの作品の里帰りや発掘調査の進展によって,実物資料も増加をみた。昭和50年代以降,有田の古窯の発掘が進み,佐賀県立九州陶磁文化館や有田町教育委員会によって発掘に基づいた詳細な調査が行われている(注3)。国際情勢変化の影響有国の急速な隆盛と海外輸出用柿右衛門様式の成立は,世界史の流れと連動している。大規模な陶磁器センターである景徳鎮窯の動きというよりは,むしろ中国政治史の流れと深い関連がある。1644年,李白成が北京を攻略して,明朝最後の皇帝崇禎帝は自殺し,清軍が入関する。このころ有田で磁器焼成が始まり,染付,そして現在古九谷様式と呼ばれている色絵磁器が制作されるようになる。清が中国支配をなしとげるには約20年かかったが,景徳鎮窯の活動や外国との貿易が再開するまでにはまだ時聞が必要だ、った。というのも,清朝は1662年に明朝を滅ぼしたものの,1673年から1681年まで雲南・広東・福建を中心に三藩の乱がおこり,1674年には景徳鎮が反乱軍に占拠されてしまう。清朝に仕えるのを潔しとしない鄭氏は,台湾に渡って海上貿易による富を蓄えて,清朝に対する抗戦を続けた。清朝は20年ほどにもわたって繰り返し遷界令を発して沿海住民を内陸に移し,鄭氏との交易を絶つことで経済的打撃をあたえようとした。鄭氏は,鄭成功の子,鄭経の死後の1683年に清に降り,ょうやく清朝の中国平定が成った。つまり,1661年に即位した康照帝の初めの20年間は中国全土の統ーにかけられたことになり,この明から清への動乱期に柿右衛門様式が形成されている。明代の輸出陶磁は青磁と染付(青花)が主で,明清過渡期様式(トランジショナル・430
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