が,それ自体では空間を仮構する機能をもたない。人物と凡|阪の不自然なバランスは画面右端の柱と同様,凡帳が室内を暗示する記号にすぎないことを示している。「鈴虫第二段Jでは調度品の類は描かれない。この画面から人物を抜き出した後に残るのは単なる垂直線や斜線の交差であり,吹抜屋台を建築物たらしめるものは大きく描かれた人物像と,その位置のずれから生じる三次元の錯覚である。画面の左下端の人物に支えられてまず源氏と冷泉院の座る空聞が仮構され,その三角形を囲むように描かれた人物によってさらに空間が拡大する。源氏と冷泉院を結ぶ直線上に荊かれたタ霧についていえば,彼の周囲の空間の三次元性は吹抜屋台によってではなく,源氏たちの作る三角形によって支えられている。この画面では人物を視覚的に結んで作りだされる空間にのみ虚構の三次元が現出するのである。「御法jにおいても部分的にしか描かれない梁や床の急な傾斜角度,狭い渡り廊下をみる限り,画家は吹抜屋台の骨組みを三次元的に表現することに積極的ではない。吹抜屋台は場面が室内であることを示す標識なのである。画面の主人公は源氏と紫の上であるが,感情の交錯する舞台ともいうべき二人の周囲の空間を支えるのは明石中宮の存在である。三人の位置のずれが作り出す小さな空間のみが虚構の三次元であり,その三角形の外に広がる空間を虚構の三次元として支えるものは何もない。だからこそ庭の前栽を象徴的な空間に描かれた象徴的なモチーフとして解釈し,登場人物の心理と重ねあわせて鑑賞することができるのである(注8)0 I鈴虫第二段」に描かれた群青の夜空も同様に解釈できょう。この画面中,人物の描かれない画面右上端の空間は源氏たちを結んだ三角形が作りだす虚構の三次元性の及ばない空間,いわば虚空でありそれゆえに象徴の夜空の侵食が許される。人物の姿なしには虚構の三次元性が失われる空間においては,その士号聞が表現するものは人物像が象徴するところの何か,すなわち感情や感情の交錯が生み出す心理ドラマに収赦してゆくのである。「柏木第一段jにおいて主人公三人の聞に結ぼれた空間を女房たちとの聞に結ぼれた空間に拡大することは,とりもなおさず、主人公三人の感情の波紋が傍観者である女房へ,ひいては鑑賞者へと拡大することである(注9)。そしてそこに「感情の交錯を可視化した画面Jが現出する。「鈴虫第二段」では横長の画面の右と左に人物の配置をふりわけることによって源氏と冷泉院の胸中に去来する感情と柏木を追慕するタ霧の感情との内容的な違いを空間表現として可視化している。-440-
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