(5) 容易にし,物語の展開によって揺れ動く登場人物のいかなる心理をも受けとめるといわれる。しかし「紫式部日記絵巻」の御五十日の祝宴での男女の戯れの場面〔図7・ば物語中の限定された時間のみを掬い取って表現することであろう。前述の「源氏物語絵巻」中の「鈴虫第二段」とほぼ同じ構図(I鈴虫第二段jの構図を反転させた構図)をもちながら,御五十日の祝宴場面ではストーリー展開を示す登場人物のアクションへとその表現主題の比重が傾いている。人物の表情と大きな身振り,人物と背景とのバランスの融合性が,この絵に生き生きとした「現実味Jを与えると同時に説明性を強め画面の叙情性を希薄にしているのである。同様のことが「紫式部日記絵巻」の五島美術館本第一段や森川家本断簡〔図lOJにも指摘できょう。その一方で蜂須賀家本第八段や藤田美術館本第四段〔図11J,五島美術館本第二段や大倉家本断簡にみられるように,人物の心理ドラマに重点をおいた叙情的な場面も描かれる。そこでは伝統的な引目鈎鼻の人物たちが人物同士の大きさのバランスを無視して,あるいは背景に比して大きく描かれ,吹抜屋台も空間を仮構する枠組みではなく「場」の記号として機能している。つまり「紫式部日記絵巻」においては「現実味jを重視しながらストーリー展開を追うことを目的とした説明的な場面と,人物の心理の交錯がかもしだす情趣の表現を目的とした叙情的な場面とを描きわけていると思われる。前節において「紫式部日記絵巻」が叙情性に留意しながらも,人物や空間の表現において「現実味」を失わない画面構成を志向していることが明らかにされた。それは女絵に内在する歌絵の伝統を尊重しながらも新たな表現を開拓しようとする制作者の意欲としてとらえることができるが,この絵巻にそれを可能にする土壌が存在していたことも考慮すべきであろう。その最大の要因としては先述したように日記文学というテキストそのものの特質があげられよう。登場人物が過去に実在したという歴史的事実や過去の有職故実の記録(注目)としてのテキストの性質は,制作者のみならず,絵巻の登場人物と共通の社会階級に暮らす鑑賞者にも「現実味」への執着を抱かせる。また伝統的な引目鈎鼻表現からの逸脱については似絵の流行と無関係で、はあるまい。13世紀半ばから14世紀半ばにかけて,実在の貴顕の人々を「写実的に」描く似絵図8・図9Jにみられるように,ある一瞬の表情をたたえるということは,換言すれ-443-
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