注16)。対してラウシェンパーグはモダニズム絵画に別れを告げることでその「卑俗性」の伝統と対等で、あろうとした彼らの自意識の表れでもあった筈だ(注15)0 T . J・クラークは「抽象表現主義の弁護のために」の中で抽象表現主義の画家達の大仰なレトリックや筆捌きの不毛さを歴史的,階級的見地から「卑俗性jという単語で敢えて肯定的に論じたが,彼らによるギリシャ神話の借用もその一環として理解できょう(注を受け流し,彼らが無視した文字通り卑俗な要素もろともギリシャ神話を作中に取り込むことを選択した。その戦略をラウシェンバーグによるヨーロッパ美術の伝統に依拠すると同時に,アメリカ美術が持たないその重厚な歴史性を解体する身振りとして理解することもできるだろう。そして1958年の〈コカコーラ・プラン>(図9Jに見られるように,そうした神話的要素をアメリカの真に通俗的なイコンと結び、つけることで,自国の文化における神話作用に言及していたと言えるのではないだろうか。最後に,ギリシャ神話を通してラウシェンパーグが行ったアメリカ神話への言及は神話の批判なのか,それとも再生産なのか,という問いが残る。実際,{コカコーラ・プラン〉には〈無題〉や〈灰色の羽のある絵画〉にあるような悲劇性は見いだせない。むしろそこに取り付けられた羽は幸運と富裕の神であるヘルメスの羽を想起させ,まさにコカコーラに代表されるような第二次世界大戦後のアメリカ経済の「飛躍」を祝福しているかのようだ。従って,ひとまず上の聞いにそのどちらでもなくどちらでもある,と答えておくこともできるだろう。だが,コンパイン群が形成する独立したイメージのネットワークの中で,あるモティーフが他のモティーフと並置されることで特定の意味を帯び\次の瞬間にはまた別のイメージと結びつくことでその読解が常に転覆されていく流動性の前においては,むしろそうした問い自体が成り立たなくなるのではないだろうか。その解決を見ない意味生成と意味破壊の戯れに筆者はラウシェンパーグの「神話的世界」の豊かさを見いだすのである。(1) ラウシェンパーグ作品におけるギリシャ神話の参照を包括的に論じた先行研究はないが,以下に挙げるトマス・クロウの論文は部分的にこの問題について論じている。ThomasCrow,“Southem Boys Go to Europ巴:Rauschenb巴rg,Twombly, and Johns in the 1950s," in Jasper Johns to Jeff Koons : Four Decades of Art from the -37-
元のページ ../index.html#46