鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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に極めて慎重な態度が一般的であり,現地住民の低級官僚の養成が支配上の必要に応じて行われた。いわゆる同化統治は,統治コストが高く治安問題を起こし,その上,被支配者の文化を破壊するという反道徳的な理由によって,西欧諸国では植民地統治の潮流から排除されていった。やむを得ず教育を実施した場合でも,通常その対象は支配者の選択によって決められ,教育の内容も地域,人種などによって常に大きく異なっていた(注2)。ところが,日本が行った台湾の教育施策は,時期的による相違はあるものの,男女,階級,人種すなわち漢民族系住民と先住少数民族(かつての「高砂族J),そして地域,つまり都会や山間僻地,離島を間わず,実施されていったのである。このような体制の下で,植民地でありながら台湾の初等教育は大きな成果を挙げている(注3)。このような成果によって1902年の図画教育の導入及び,その後の台湾新美術の萌芽との繋がりがあると考えられる。試みに植民地同化主義統治の例としてよく挙げられるアルジエリアにおけるフランスの統治を見ると,領有当初の1830年から百年を経た1930年頃の時点でも,児童の就学率は僅か男子11.5%,女子1.5%に止まっている(注4)。それに対して,第二次世界大戦終結直前に台湾の児童の平均就学率は71.3%にまで達した(注5)。植民地化された地域のみならず,同時代の欧米先進国における就学率に比べても遜色のないこの数値は,日本が台湾を領有して僅か半世紀の聞の成果である。また,初等教育を中心としたピラミッド型の教育制度は同時代のイギリス支配下のインドの逆ピラミッド型の教育制度と比較してみても特異な存在であったことが分かる(注6)。このように植民地台湾の初等教育で高い普及率をもたらした背景や原因は一体何であったのか。ここで重要なことは,支配者側の意図を解明するだけでなく,I同化」教育の普及過程で被支配者の台湾住民がいかに対応し,またいかなる役割を果たしてきたか,という問題である。この点を看過する限り,I植民地統治イコール近代化」という逆説的な事態を正確には説明し得ないのである。いうまでもなく,植民地統治の態様は,支配する側の意図が一方的に規定するものではなく,支配者の政策とその政策に対する被支配者の受容もしくは抵抗の力関係によって規定されるものである。日本語による近代教育を重点化した統治体制の特質は支配者側と被支配者側の双方から検証する作業が必要で、ある。本研究は,それぞれの立場から問題になるであろう諸点をここで簡単に整理しておこう。まず,日本側から考えられる事情を整理してみる。

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