ており,文化統合の創出機能は不十分であったと結論付けている(注8)。駒込の提示した視点は有効なものであるが,一つの課題が残されていよう。そもそも植民地統治において国民統合ということが課題とされないような次元の問題をどのように考えるのかという点である。例えば,イギリス人が総じてインド人を「国民Jとして包摂しようとしなかったことは周知のことである。ロシアによるコーカサスの植民地統治でも,現地の住民は国民統合の対象とは見なされず,もっぱら物理的な排除の対象とされた(注9)。西欧の植民地支配の歴史を概観すると,現地住民の殺裁,追放,隔離,使役はあっても,国民化はむしろ排除される場合が多かった。国民統合の原理及びそれに関わる「同化」は,植民地統治にとって必ずしも必然の支配方式ではない。いかなる意味で,またなぜ、植民地の被支配者が統合の対象とされたのかということがさらに具体的に検証されなくてはならないのである。また,駒込は,国民統合の一つの柱である文化統合が,I形骸化」されていたことを強調している。それは確かだとしても,被支配者の側からすれば,形骸化しつつも多くの痕跡を残していること,戦後台湾の文化,歴史はその痕跡と対峠することから始まらざるを得なかったということこそが重要で、ある。そうした観点から,植民地台湾の国語教育を見直すとき,統合の方策に重点を置いた駒込の研究からは見えないものが見えてくるはずで、あるし,またそれを明らかにしなくてはならないと思う。1-3,対西欧列強向け宣伝の必要明治28年,日清戦争の勝利による日本の台湾領有は,植民地支配の歴史上において少なくとも二つの意味がある。まず日本にとって台湾領有は,I内国植民地」の北海道を除いて,史上初の海外領土の拡大であった。もう一つはこれまで西欧対アジアという植民地支配の構図が塗り替えられたという意味である。アジアにおける唯一の植民地支配固となり,その支配対象は「化外の地」として清国が経営に手を焼いた台湾であっただけに,日本の台湾領有は注目の的になった。特に日本は台湾と同じく中華文明の影響を受けてきたという歴史を持つ。台湾に居住する「支那人」を日本人が支配するということは,世界のそれまでの文明史上の彼我の位階を逆転させる事態であり,日本軍が台湾人の武装抵抗に対して激しい弾圧を行い大量の殺裁を行ったことは,西欧諸国の非難や瑚笑のまととなった。それだけに,西欧人の眼を過剰ともいえるほどに日本政府は意識していた(注10)。日清戦争に勝利を453
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