得たものの,日本は統治の失敗者になるという予測を覆すために,台湾統治の「文明性」と円滑なる統治を西欧列強に向けて宣伝し,東洋の新生帝国の心像を構築しなくてはならなかった。そのためにも,積極的な教育が新領土台湾の地で行われていったと推測されるのである。以上,台湾の統治形態を規定する日本側の要因を検討してきたが,実はこれだけではなぜ「同化J教育が推進されたのかということは明らかにならない。そこで,被支配者側の台湾における背景を見てみよう。2-1,儒教の伝統教育を神聖視する台湾人日本による領有以前,台湾は清国の版図であった。伝統的に教育を重視する儒教思想がこの島には深く根付いていた。領有当初,日本軍の武力鎮圧に対して現地住民は必死の抵抗を試みる。騒乱の中,文廟,即ち孔子廟の破壊や四書五経に対する粗略な行為が台湾住民の反感を増す原因の一つであったことが判明すると,新附民の人心を収捜するために,この粗暴な行為を止めさせ,日本軍は兵士を派遣して文廟を保護したということがある(注11)。学問の神のような存在である孔子やその言葉を伝える書籍,学問に対する台湾人のなみなみならぬ敬仰がこの話からうかがえる。この教育を神聖視する儒教の伝統が,教育実施の基盤を提供したと考えられる。しかし,教育を神聖視する台湾の伝統が台湾統治の特異性の変数として成り立つためには,新式の教育の内容や精神と台湾人の伝統の儒教的な教育のそれとが合致する前提が必要である。そうでなければ,教育の普及は台湾人の伝統文化を抑制,剥奪する意味しか持たない。また教育を重視する儒教の伝統は,直ちに植民地教育の遂行の円滑化のエネルギーになる保証はないのである。実際に,台湾人が護持する儒教教育の理念,内容は,新式の教育の内実,精神と一致するものではなく,むしろ衝突するところが多かった(注12)。領台初期,儒教の華夷思想をもって日本教育を「蕃仔(フアナー,未開人の意)学校jと誇った台湾の旧知識人も大勢いたことから考えて,儒教を重視する伝統は,日本教育普及を拒絶する側面ともなっていた(注13)。日清戦争後も,伝統の教育機関・書房は廃止されることなく温存され,日本語学校と併存していた。台湾人が旧来の教育機関を進学先として選択し,伝統の儒教教育を墨守することは奨励はされなくとも,あからさまに禁止されることはなかった。従って,儒教の伝統が新式の学校の普及を支えるエネルギーに転化することがあったとし454
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