ても,それを可能にする何らかの媒介が存在したはずである。2-2,教育費の徴収に応じられる比較的豊かな社会台湾総督府は,新附民の入学を奨励するために領台当初こそ無償入学の態勢をとったものの,明治31年の公学校規則制定後は日本人教師の俸給など台湾総督府が負担する分を除いて,すべての費用は地方税,街庄費(一種の寄付金)で支弁することとした。従って,教育普及の成否は台湾人の富裕度に関わっていたのであり,教育普及と住民の経済負担能力は正比例の関係にあった。台湾総督府と新附民の負担比率を見るに学校数の増加に伴って統治者側よりもむしろ台湾住民の税金負担が徐々に重くなっていくのである。植民地は,人口,地理,自然条件の相違によって資源の豊かさも一様ではない。植民地政策の研究家であり,かつて台湾,朝鮮両地の教育政策の担当者でもあった持地六三郎は,日本の第二の植民地となった朝鮮,また同時代アメリカ支配下のフィリピンと比較して台湾社会の資源の豊かさを明言している(注14)。同様の見方は朝鮮,台湾両地の学務課長を担当していた隈本繁吉によっても指摘されている(注15)。教育費の徴収を可能にするこうした豊かさが台湾統治の特異性をもたらした要因のーっと考えられる。ところが,たとえ教育費を負担したとしても新式の学校の教育内容は伝統の教育課程と大きく異なり,日本語教授時間数の優遇方針の下では台湾語による「漢文」という台湾人の言語による教授が抑制された。このような教育内容,方針,行政に対して台湾人は口を挟む余地はなかった(注16)。新式の学校は台湾住民にとって伝統文化が抑制され自主性を持たないものであった。無論,入学拒否を選択し,書房を選択することはできた。教育費の徴収に応じられる比較的豊かな社会であったことは,一般的に教育普及の条件とはなり得ても特異な植民地統治態様を支える十分な決定要因とは言い難い。2-3,科挙制度の代替台湾領有直後,新領土の伝統の教育機関,書房,義塾などはそのまま存続されてはいたが,清国の支配下で,台湾人にとって社会的な地位,威信や経済上の上昇手段であった科挙制度は廃止された。それに代わって教育が社会的な地位,威信や経済上の455
元のページ ../index.html#464