鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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上昇手段となっていった。さらに台湾総督府の懐柔策によってこれまで清国の支配を支える装置として機能してきた台湾の地主階級や士大夫層が日本の統治体制の内部に吸収され,比較的有効な植民地の協力機構の構築を可能にした。呉文星によると,この階層,いわゆる郷紳層は,清朝以来の社会的,経済的,文化的な優位を保つために,自分の子弟を新式の学校に入れ,また彼らの寄付によって教育機関の設置,維持が可能となった(注17)科挙の廃止によって,日清戦争以前台湾の伝統教育体制を支えてきた旧来のエネルギーがほぼそのまま,日本の植民地統治に転移し,教育の推進力となっていく構造が存在したと考えられる。台湾領有当初に限って言えば,呉の仮説にはある程度の合理性を認め得る。しかし,この仮説は,時間の経過に伴って就学率が年々上昇していく状況を説明するには難点がある。また,郷紳階層の間では子弟が使用人や苦力の子弟と同じ机で勉強することを屈辱として捉ぇ拒絶するという状況があったことをどのように説明するかという問題が残されている(注18)。儒教の教育思想、の下で科挙制度に依存し台湾社会の特権階級として教育の領域を独占してきた郷紳階層が,果たして容易に,自らの子弟を下層階層の子弟と共に机を並べさせることができたのか。郷紳階層が科挙制度の代替的な機能を新式の教育に見いだしたことを説得的に提示するには,彼らの画期的な意識変化の解明がまずなされなくてはならない。以上,植民地統治下の台湾における同化教育を可能にしたと考えられる要因を支配者と被支配者の両側面から検証した。それぞれの項目で指摘したように,上記の諸要素と台湾植民地教育の態様との関連性を提示することが出来たのである。一方,台湾の初等教育における図画教育は,1912年に「手工図面J科として開始したが,日本人と台湾人との別学制が採られていたため,日本人をおもな入学対象とする「小学校Jではすでに,1897年に内地の教育制度と内容に沿って「図画」科が設けられ,I毛筆画」教育が行なわれていたが,台湾の公学校では1912年になって初めて,生活技能の育成と実用を目的とする「手工図面j科が置かれた。師範学校では1902年に国語学校の師範部甲・乙両科に「習字図画」として設けられていたものが,1910年に「手工図画」科に改められた。台湾における初等教育の図面教育は,植民地の経済的価値に着眼して始められたものが「原型」であって,当時の日本の図面教育をそのまま採用したわけではない。それは,台湾特有のいわゆる地方的な需要を考えて採られた教育政策であろう。また,この政策上の違いについては,日本が台湾占領時代,初期の20年間に台湾の教育に対して抱いていた主義主張,つまり被統治社会の文化,456

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