注(1) 張良沢「台湾語になった日本語J,rしにか』創刊号,1990年4月。(2) 19世紀,蘭領東印度では,一等学校,つまり上流社会の子供のためにかなり高等(3) 昭和20年,台湾総督府発行の『台湾統治概要』によると,領有後半世紀の台湾の(4) ベツゲル(鈴木福一,西原茂正訳)r列国の植民地教育政策.],第一出版会,昭和(5) 前掲『台湾統治概要.],51, 52頁。社会機構の教育政策と内容に対する影響を深く掘り下げて検討するべきである。本研究では,台湾統治の特性と台湾人が新式教育に対する態度を追及する,と共に台湾の近代美術の萌芽を探った。本論文は,一面日本の台湾統治の特異性を見据えながら,拒否ではなく受容という台湾人の態度を追究し,日本と台湾の美術教育を探ったが,取り上げた時代は明治期から第二次世界大戦終結まで長い期間にわたった。本研究はまだ未完成のため,資料の提示及び実証と理論の調整はなお不足している。今後,先学のご指導,ご意見を賜れれば幸いである。研究上,不完全であることは自明のことである。さらに文明に俊敏に反応し,近代化を強く志向する台湾の社会科美術教育の実態をさらに究めること,また戦後台湾社会の行方を強く左右してきた台湾人の文明観の研究を,今後の課題にしたいと考えている。なる程度まで授業を行う学校と,二等学校,つまり下層社会の子供のための極めて簡単で実用的なもののみを教材とするものとに分けられていた。同化主義を旗峨としたフランスにおいても,例えばインドシナにおける教育の対象は原住民の中の指導者,中間層にあって,庶民ではなかった(長尾十三二「帝国主義政策と植民地・従属国の教育Jr近代教育史.],誠文堂新光社,1956年,47頁)。官公私立学校の状況は,初等普通教育の官立,公立国民学校が1099校,高等普通学校は46校,実業学校27校,師範学校5校,専門学校5校,大学l校,特殊学校(盲唖学校)1校となっている。日清戦争直後の明治28年から始まった初等教育は,昭和19年には,全島合計1000校を超え,872,507人の国民学校児童を有する規模となっている。それに対して大学は僅かl校で台湾住民の生徒数も111人を数えるに過ぎなかったu台湾統治概要.],台湾総督府,昭和20年。なお,就学児童の数字は『台湾統治概要』に基づいて集計した結果である)。18年,311, 312頁。457
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