同明治30年4月中旬,東京台湾会で演題に立った伊藤博文は,台湾占有の目的を二(6) 逆ピラミッド型のイギリス教育方針は,有名なマコーレイの計画と深く関わる。(7) 呉宏明「植民地教育をめぐってj,r帝国議会と教育政策J,思文閤,1981年,505 (8) 駒込武『植民地帝国日本の文化統合J,岩波書庖,1996年。(9) 19世紀,ロシアがコーカサスを植民地として占領した時,その中央山脈に生活す年11月,誠美書閤,325頁)。それは上層階級に力を入れて大量の高等教育者を養成し,上層階級を媒介にして教育を漸次にインド各地の各階級に浸透していこうとする狙いが背後にあったといわれている(ベツゲル前掲書,237頁)。また,20世紀初頭,英領インドのカレッジ数は文科161校,医科4校,法科,工科,教育科各3校,農科,東洋科各l校,合計176校であった。そして1921年,インドの中等学校の生徒数はイギリス本土を凌駕し,カレッジや大学生徒の数は数十万に達している。それにもかかわらず,民族運動の芽生えなどに対する憂慮もあって,イギリス当局はほとんど国民教育に関心を示さず,1921年時点,インドの住民の男子の識字率は13.9%,女子は2.1%に過ぎなかった(幣原坦『植民地教育』大正元年,同文館)。頁。る現地住民にクパン谷へ移住するよう命じたが,彼らが激しく抵抗したためにロシアは大量の殺裁をして現地住民を撃退した。その後,ロシア政府は彼らにトルコへ移住するよう命令した結果,25万人のコーカサスの現地住民のうち,クパン谷に移住したのは約1万人,残る24万人は殺毅されたり,トルコに移住したりすることになる。つ挙げている。その一つは日本人が果たして域外の人民を統治する能力があるか否かを西欧諸国に証明しなければならないこと,もう一つは,万一台湾統治に失敗すれば,r是れ日の丸の御旗の光りの失墜する徴端jr日本のナショナルチーが地球面上に光栄ある保存を期する資格ありや否やを疑はしむること」であるとして過剰ともいえるほどの反応を示している(井出季和太『南進台湾史考J,昭和18制伊沢修二「台湾教育に対する今昔の感jr伊沢修二選集J,信濃教育会,1956年,648~ 9頁。前掲書,陳培豊「近代日本の国体イデオロギーと台湾の植民地統治j(r中国研究458 ω 台湾で実施された日本の教育理念,方針が儒教精神と離舗を来すことは,駒込の
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