実際のコラージ、ユの制作において「偶然」の役割が限定されていたことである。今一つは,アルプが「偶然の法則」を(まがりなりにも)理論化し,著作の形で表明するようになるのが,コラージュの制作時より遥かに下るという事実である。「偶然の法則」という概念について最初にまとまった形で考察したものが出版されたのは,1948年のことである(注5)。従って,I偶然の法則による」コラージュの制作第一期にあたるチューリッヒ・ダダ時代(1916-1919)からも,1930年代に「デッサン・デシレJや「パピエ・デシレ(papierdechire) Jと呼ばれるコラージュによって始まった第二期からも遅れて,理論化がなされたということになる。それではここで,Iデッサン・デシレ」と「パピエ・デシレ」の違いについて言及しておきたい。1930年に「素描Jをヲ|き裂く「デッサン・デシレjを始めたアルプは,その三年後に今度は素描ではなく,グワッシュで黒く染めた厚手の「紙jを引き裂いて作る「パピエ・デシレ」という技法も始めた。「パピエ・デシレ」の場合,素材がすでに存在している作品(素描)ではないため,厳密な意味では「分析的コラージュ」のカテゴリーには属さない。しかしながら,Iパピエ・デシレ」が,I分析的コラージ、ュJ程の破壊の暴力を内包しないとしても,この黒い「星座」は,Iデッサン・デシレJに似た方法と精神によって制作されたのである。アルプは,他のチューリッヒ・ダダイストと同様,実際に偶然の効果を用いて創作を行っていた時に,それを理論化する必要性を感じなかった。チューリッヒ・ダダイストたちが,同時代のマニフェストとしてではなく,I歴史jの中にダダとf皮らの正当な位置を与えようとして,ダダについての著作をあらわすようになるのは,第二次世界大戦後のことでしかない。このような状況下では,ハンス・リヒターやリヒャルト・ヒユルゼンベックの著作,そしてアルプの著作でさえ,I偶然の法則」を神話化しようとする傾向から逃れられないであろう。以上の点を踏まえた上で,アルプが1948年に出版した「かくして円環は閉じた」というテキストを検討していきたい。以下に,ダダ時代に関連する部分を引用する。「私達[ゾフィー・トイパーと私]は,各々が自分のために,または共同で,刺繍をし,布を織り,絵を描き,コラージ、ユや,幾何学的で、静的な絵画を制作した。その際,表面と色彩から成る,厳格で非個性的な構成が誕生したのである。あらゆる偶然は取り除かれた。しみの一つ,裂け目の一つ,ほぐれの一つ,不正確さ-464
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