ス2.エルズワース・ケリー1950年2月17日,ケリーは,パリ近郊のムードンにあるアルプのアトリエを訪れた。相違にもかかわらず,同じ自然のプロセスの表裏一ーすなわち,破壊と再生のプロセに属すると解釈すべきなのであろうか(注17)。この見方は,おそらくアルプが,自身の著作において芸術創造と自然のプロセスの類似を繰り返し説く中で,言わんとしたことだろう。しかしながら,アルプにおけるこの芸術上の不協和音は,ほとんど分裂症的な様相さえ呈しており,とりわけデッサン・デシレの少なくとも最初の段階における強烈な破壊衝動は自然の力を越えて芸術家を突き動かしているように思われる。1930年におけるアルプの芸術上及び私生活上の危機には,その前年のアルプのほの死が甚大な影響を及ぼしていた。また,この時期顕著になってきたヨーロッパの社会危機が,それに拍車をかけたであろうことも見落とすべきではないだろう。アルプの芸術創造の中に出現したデッサン・デシレは丸彫り彫刻の閉じた形態において「完全な均衡J(注18)に達することを望んだアルプが経験したひび\真の裂け目をさらけ出している(注19)。そもそも,I完全な均衡jとは,アルプがゾフィー・トイパーを評して言った言葉であり,アルプ自身にはおそらく到達不可能な地点であったかもしれない。デッサン・デシレは,丸彫り!杉刻とは逆に,聞かれた不連続な描線によって聞かれた形態となり,元の素描の多なかれ少なかれ閉じた形態を,内側から外側に向けて破砕する。アルプのデッサン・デシレは,その破壊性と表裏一体の脆さやはかなさのゆえに,とりわけ芸術作品の「完成Jという概念とその堅牢性を常に揺るがせているといえよう。一一一戦略としての偶然からマルチ・パネル・ベインテイングへその際アルプは,ケリーに,ダダ時代の「偶然の法則によって」配置されたコラージュ及び、ゾフィー・トイパーの格子のシステムに基づく作品を見せた。この機会にケリーは,アルプのデッサン・デシレもおそらく見たものと思われる。その後,ケリーは「偶然の法則による」コラージュを集中的に制作し始め,偶然は,ケリーのフランス時代において,極めて重要な戦略のーっとなる。ケリーは,この時代,1個人的な筆致というよりむしろ外部の着想源Jを探しており,「外部を取り込み,自然に決定させようとしたJ(注20)と述べている。この「外部の着想源Jという言葉は,まず,1948-49年の冬以降ケリーが頻繁に用いていた手法-468
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