を指していると思イヴ二アラン・ボワの用語によれば「転写(transfer)J (注21)われる。「転写」は,自然あるいは人工的な環境に見出された形態(pattern)をそのまま写し取る手法で,イメージと地がともに二次元平面であること(例えば,窓,壁,影の場合等)に基づいている。芸術家が外部の現実から素材を採取するわけではないが,rすでにある(alreadymade) J (注22)構図を写し取るこうした行為には,コラージユの操作に似たものが認められる。そして,r自然に決定させようとする」ことによって,ケリーが観察する身の回りの環境に及ぶ偶然の作用がよりはっきりと見えてくるだろう。「…葉,グラス,壁のひび割れ,無数の部分と変化は,全て偶然の成り行きに任せられている。このような構成の方法は無限であり,r私』を必要としなかった一一それらは,自ずと形成される一一一自然が私のために偶然の法則を用いたようだ、った(注23) oJケリーは,アルプの精神に倣い,今度は「自分自身の偶然をつくり出すJ(注24)ことにする。ケリーは,古い要らなくなった素描を引き裂いたり,または剃刀か鋲で切り取ったりし,そうして得られた断片を落ちた場所にそのまま貼り付けた。1950年にこうして制作された最初の「偶然の法則による」コラージュのシリーズ〔図4Jは,アルプのデッサン・デシレに近いが,すでにオール・オーヴァー(allover)な構図への志向が看取される。この両芸術家は,r自ずと構成されるJ(注25)作品の追求,すなわち非個性的な匿名の芸術の追求においては一致していた。しかしながら,アルプの二重の意味において引き裂かれた体験に比するならば,ケリーは,分解していく自分の作品に対して,むしろ静かで無関心であるようにすら思われる。ケリーにおける破壊は,より機械的で実験的な性格をもっている。この両者の態度の相違には,アヴァンギャルド芸術の認知を得るために戦わなければならなかったアルプの世代と,アヴァンギヤルド芸術がすでに認知され,その思恵に浴することができたと同時に,常に先行世代との関係で自らの立場を測らなければならなかった,ケリーの属する戦後世代との聞の相違も影響しているであろう。アルプは,著作の中で,偶然の倫埋的及び神秘的な次元を語るとともに,ルネッサンス以降人間の理性が過大評価されてきたことを思い上がりと見なし,それに対する深い不信の念を繰り返し表明してきた。プラグマテイストであり,諸々の「事実jというものに魅了されていた若いアメリカ人のケリーは,このアルプの世界観とはかけ離れたところにいた。確かにケリーも,iルネッサンス以降のあらゆる芸術は,あまり-469-
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