ノfーグと親密な関係にあり,<旗〉を制作中だ、ったジョーンズへの目配せでもあっ。1)このシリーズに関する議論の詳細は拙論「ロノtート・ラウシェンパーグの不安と1975 (Halifax: The Press of the Nova Scotia College of Art and Design, 1975), 86.また,ジャッドが1965年に60年代の彫刻の動向を理論づけるために著し,現在ではミニマリズム彫刻の実質的なマニフェストとして理解されている評論においても,ラウシェンパーグの作品をジョーンズの作品と共に「始まりであるjと位置づけているO“Specific Objects, " in Complete Writings, 183.フリードのミニマリズム批判については以下を参照のこと。MichaelFried,“Art and Objecthood," Arゆrum5 (June 1967) : 12-23. Art and olヅ;ec仇ood(Chicago: University of Chicago Press, 1998), 148-172に採録。(8) 恐らく,<無題〉におけるこれらの断片的なアメリカのイコンは,当時ラウシェンただろう。(9) Crow,“Southem Boys Go to Europe," 52. (10) Joan Young with Susan Davidson,“Chronology," in Robert Rauschenberg : A Ret rospective (New York : Solomon Guggenh巴imMus巴um,1997), 559.ブランデン=ウェイン・ジョセフもこの作品をラウシェンパーグのシルクスクリーン絵画及びそのテレビ画像との類似性において論じている。BrandenWayne Joseph,“A Du-plication Containing Duplications : Robert Rauschenberg' s Split Scre巴ns,"October, no.95 (winter 2001) : 3 -27. 内省:ダンテ『神曲j地獄篇のための34枚のドローイングjを参照されたい。『フイロカリアJ第18号(大阪大学芸術学・芸術史講座,2001年2月): 81-104. 同バルトが『神話作用』で論じる,国旗敬礼をしている黒人兵のイメージにこの誌面のより強力な並行例を見いだせるだろう。Barthes,Mythologies, 223. (13) ラウシェンパーグの離婚の背景には彼とトゥオンブリーとの交際があった。実際,彼らは1952年から1953年にかけてイタリアと北アフリカに長期旅行に出かけており,ラウシェンパーグのギリシャ・ローマ古典への関心もトゥオンブリーを通して育まれたようだ。(14)以下に挙げる研究例はその点に問題があることを自戒も込めて記しておく。Jonathan Katz,“The Art of the Code : Jasper Johns & Robert Rausch巴nberg,"in Sig-nificant Others,巴ditedby Whitney Chadwick and Isabelle de Courtivron (London: 39
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