いは,スケールの顕著な拡大にある。ケリーは,建築のための作品,とりわけ建物の外壁を飾る作品を構想していたが(注38),その当時はそうした作品を実現するための資金を欠いていた。こうした大きなスケールの作品への志向と,表現的で個性的なタッチ(筆致)を拒否する姿勢に,ケリーにおける作品のテクスチャーへの無関心(注39)の理由の一端がうかがわれるだろう。まさにそれ故,(<シテ〉のための習作〉に続く一連の「偶然によるJコラージ、ユのシリーズで取られた解決方法は,ケリーの目に不十分で、あると映るようになる。なぜなら,これらのコラージュには,一般に縞模様のような筆跡(または貼り付けられたコラージュの部分)がまだ含まれていたからである(注40)。このシリーズのコラージュを絵画化するに際して,(シテ〉以外は,パネルを組み合わせたポリブティックの形式ではなく,一枚の板かカンヴァスに拡大して描く方法が取られた。この場合,元のコラージュでは切断面として目に見えていた,各々の正方形の境界を形作る端は,絵画作品では省略され,見えなくなる。切断面が見えなくなることにより,正方形のユニットを横断して,自の部分と着色部分の間で,図と地が相互に入れ替わる可能性が高まる(注41)。それ故,こうした縞模様のパターンは,図と地の対比を新たにっくり出すことになりかねない。ケリーがこのシリーズ以降,1偶然の法則による」コラージユの素材として素描を用いなくなるのは,そうした理由によるものである。(これ以降ケリーのコラージュは,厳密な意味ではもはや「分析的コラージュJのカテゴリーには属さない。)1951年秋にパリで始まり,11月以降南仏サナリーでも制作が続けられたコラージュのシリーズ〈偶然によって配置された色彩のスペクトル>[図7Jでは,素描の代わりに大量の色紙が用いられ,この色紙を無作為に選び出して1444個の桝目を一つずつ埋めていく極めてシステマティックな方法が採られた。ケリーの作品は,この大型の〈スベクトル〉コラージ、ユのシリーズにおいて,色彩が爆発的に開花する。しかしながら,この新しい色は,研究者が紋切り型に期待してきたように,南仏の太陽の下で突如開花した(注42)というより,実はその当時フランスの丈房具庖で売られていた「パピエ・ゴメツト(papi巴rgommette) Jと呼ばれる糊付きの色紙に直接負っているのである。この工業生産の色紙は,20種類程の艶のある独特な色合いをしていた。また,今までケリーの研究者は,ケリーが1951年サナリーに出発する前にパリの文房具庖でパピエ・ゴメットを発見し,(スベクトル〉コラージ、ユにおいて初めて使用したと考えて472
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