鹿島美術研究 年報第19号別冊(2002)
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1950年夏に,ケリーはこの色紙を使用し始め,翌年夏にはグツゲンハイム財団の奨学きた(注43)。しかし実際には,1951年秋の〈スペクトル〉コラージュの以前,すでに金を得るために構想された本『線形色(LineForm Color) .1のためにパピエ・ゴメットで40枚余りのコラージュを制作している(注44)0 r線形色』では,(ほとんど)偶然によるかのように恋意的に色が並置され補色の体系にも基づいていないことがしばしばである。これらのコラージュは,何ものにも属さない純粋で自律的な色の概念を告げている。そういう訳で,ケリーは,i色紙を用いたコラージュを数多く制作したことで,私の作品の色調が変わったのではなく,私が色について考える仕方が変わったのである(注45)oJと述べている。ケリーの作品(コラージュ及ぴ、それを基にした絵画)の色は,これ以降フランス時代の最後に至るまで,この工業生産の色紙が提供する色に依拠することになる。それ故,この時代のコラージ、ユは,i見出された」色,「すでにある(alr回dymade)J色に基づいているといえよう。それでは,<スペクトル〉コラージュに今一度戻るとしよう。このコラージュにおいては,表面の点滅するような効果が逆に図(figure)を亡霊のように呼び起こし,色の自律性を損なう恐れがあった。ケリーは,正方形の色のユニットのサイズを大きくし,その分,数をかなり減らすことによって,内部で色が相互に連関し浸透し合うのをなるべく抑えようとした。このような過程の帰着として,1951年秋から冬にかけてサナリーで制作されたのが,パビエ・ゴメットを用いた64の正方形のユニットから成るコラージ、ュ<<64枚のパネル一一一大きな壁のための色彩〉のための習作>(図8)である。このコラージュを基に,ケリーは,64枚の板のパネルから成る絵画〈大きな壁のための色彩〉を制作した。それは,最初のモノクローム・パネルによるポリプティックであり,ケリーにとって決定的な転機を画するものとなった。この作品において,各々のユニットが一つの色である,ケリーが「マルチ・パネル・ペインテイング」と呼ぶ絵画が誕生したのである(注46)0<シテ〉のパネルにはまだ筆跡が含まれていたが,〈大きな壁のための色彩〉にはもはや筆跡はない。そういう訳で,マルチ・パネル・ベインテイングには,i形態、も地もない。絵画が形態であり,壁が地である…それは,絵画と彫刻の中間にある作品である。(注47)J色のユニット(単位)としてのモノクローム・パネルというコンセプトに基づくこのシステムによって,ケリ一言うところの「色を命名するJ(注48)行為が可能になる。不思議なことに,ケリーの芸術から追放されたはずの言語的な次元が,ここで、再び戻って来る。逆に,今までコラージ、ユの標題の473-

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