像の底流にある社会背景にも眼を向け,唐代の女性像を七つの型,つまり階型・初唐前期型・初唐後期型・開元型・天宝型・貞元型・元和型を類型区分し,唐代の女性像を社会文化の表象のーっとして理解していきたい。第一節惰型一一高祖・太宗初期陪型というのは,唐が成立してからしばらくの間,すなわち610年代から30年代までの造形様式を指す。630年の李寿墓(注1)の仕女像〔図1)はその代表的な作例である。この時期は,大乱の後の復興時代であり,国家のありかたや政治体制は殆ど陪のものを継承していたことは周知の通りである。例えば輿服制度を例としてあげると,r新唐書』巻24・車服志に,唐初受命,車服皆因惰旧と明確に記載されている。よって文化芸術・風俗慣習の面においても例外なく陪のものを基本的に継承していたことが考えられる。これはすでに発掘された陪墓の壁画あるいは出土品などにより裏付けられる。例えば,山東嘉祥県の徐敏行墓(584)(注2) と寧夏固原の史射勿墓(610)(注3)に描かれる仕女像を例としてあげると,頭飾と服飾の面では,李寿墓のものとやや異なる点が認められるが,低い髪型,卵形の顔,細身の体,胸あたりから地面につくほど長い祐,体全体のプロポーションなどの特徴は李寿墓と殆ど変わらなく,ほほ同一の造形理念に立って作られた。加えて,李和墓(582)(注4),李椿夫婦墓(583・610)(注5)・張盛墓(595)(注6) ,李静訓墓(608)(注7),虞弘墓(592)(注8),餅律徹墓(597)(注9)などの惰墓に出土した陶女偏からみても,唐の第一期の女性像が陪代の延長線にあたることが容易に理解される。この点から考えると,この時期の女性像の様式は陪型といってょいと思う。第二節初唐前期型一一ー太宗後期・高宗期初唐前期型というのは,太宗後期・高宗の支配期の造形様式をさす。663年の新城長公主墓(注10)における女性像〔図2)はこの時期の典型的な造形形式といえる。この時期の造形は,東西文化の交流に深く関係している。太宗が西域を経営した結果,外来の文化と風俗が大量に伝わり,唐朝はますます国際的国家になり,西安・洛-482-
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